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〈分人主義〉という考え方

我が家の本棚より

読みかけのまま、放置されていた本を再読してご紹介します。

『私とは何か 「個人」から「分人」へ』  
平野啓一郎  著

この本はかなり売れた本なので、お読みになった方も多いかと思います。

著者が新聞に、生きづらさを感じる人へ「分人主義」という視点でメッセージのようなものを書いているのを読んだことがあります。
面白い考え方だなと、興味を持ったことが、この本を買うきっかけでした。


さて、SNS(note)を始めて2年半。
「老婆の日常茶飯事」というキャラクターになりすまし(?)、何となくウソくさいなと、常々感じている自分がいました。

書いていることに、ウソはないのですが、何か演じているような違和感があります。

 日常のいろいろな場面で、居心地の悪さを感じたときに、「場の空気」に合わせたキャラを演じることで、その場を切り抜ける。そうしたあとで、あれは「本当の自分」じゃないんだと言い聞かせる。
こんな風に「本当の自分/ウソの自分」というモデルは、手軽でわかりやすい。

p.19より抜粋


相手や場面によって、キャラを演じ分けることに、とかく人は罪悪感を抱きがちです。

これは本当の自分じゃない!

しかし、それはごく当たり前のことでもあります。
目上の人には襟を正し、敬語を使って話しますし、初対面の人にはよそよそしい感じになります。
気心の知れた友人の前ではリラックスし、軽口も叩きます。

Aさんと会うときにはAさん向けの人格、Bさんに会うときにはBさん向けの人格…というように複数の人格を自然に出動させています。
多重人格とまでいいませんが、これは誰でも無意識にやっていることではないでしょうか。

しかし人は、首尾一貫した自分、個性を追い求めてしまいます。

 分人はすべて、「本当の自分」である。
 
私たちは、(中略)唯一無二の「本当の自分」という幻想に捕らわれてきたせいで、非常に多くの苦しみとプレッシャーを受けてきた。どこにも実体がないにも拘らず、それを知り、それを探さなければならないと四六時中、そそのかされている。
  それが、「私」とは何か、という、アイデンティティの問いである。

p.38より抜粋


分人主義とは、大雑把にいえば、ひとりの人間は分人の集合体だという考え方です。
どの自分も本当の自分。

学校や職場で、得体の知れない違和感を持つ。
これはウソの自分だ。
居心地の悪さを感じる。
そして、自分探しの旅に出たり、
引きこもったりする。
(こともある。)

著者は、「個性というものは、実のところ、誰にでもある。」と述べています。

たしかに、人の数だけ個性はあるはずです。
しかし、教育現場で個性の尊重が叫ばれてきたのは、将来的に、個性と職業とを結びつけなさいという暗示のようなものだともいっています。

個性の数に比べて、職業の選択肢はあまりに限定的です。
郵便配達に向いているから、郵便局に勤めているわけでもなく…。

本当の自分を突き詰めすぎると、自分探しの旅は終わりません。

わたしの場合、「本当の自分」らしきものになれるのは、好きな本に没頭しているとき、空想の世界に遊んでいるとき、ぐらいでしょうか。

仕事をしているときは営業スマイル。
夫の前では仏頂面。
どれも本当の自分です。

長くなりましたので、ほんの導入部だけ、ご紹介しました。

「本当の自分」というマボロシに、がんじがらめにならないように。

この本を読み、少し肩の荷が軽くなったような気がします。






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