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特に幼少期は「楽しく」が勝って良い

こちらのnoteをお読みいただいた上で話を進めていこう。

併せて上記noteで紹介されているはまじさんのツイートも。

俺は、Jリーグだけでなくて、地域リーグや都道府県リーグ、場合によってはそれよりも下のカテゴリも観に行くことがある。人によっては、そんな俺に対して「そんなレベルの低いもの見てどうするの?何が面白いの?」ってなことを、面と向かって言われたことはまだないが、肚の中で思ってそうな人は結構いるんじゃないかと思ってて、そういう人たちには、できるならこんな風に答えたいなって思う。

「楽しいから良いじゃん!」

「楽しい」とか「面白い」なんて価値観は人それぞれで、「〇〇だから面白い!」とか「××だから楽しい!」とか自分で思っていても、他人には理解されないことも多いだろうと思う。

スポーツの楽しさ・面白さも例に漏れず、自分での実践を是とする人もいれば。観戦の方が絶対に良いという人もいる。観戦にしても、戦略や戦術を語りたいという人もいれば、それよりも選手の動きを追って楽しみたいという人もいるだろうし、スタッツの良し悪しを比較してみたいなどという人もいるかもしれない。このように、合法だったり社会通念上外れてさえいなければ、楽しみ方なんて人それぞれで、正解はない。

例えば、これが俺などよりもっと若い、下手をすれば俺の子供(仮にいるものとして)が「親父、僕ならこんな風に見るのに」とか、そのまた子供たち(同じく仮にいるものとして)が「爺ちゃん、それもありだけど、僕ならこうやって楽しむのに!」とか言い出すかもしれないなんて、なかなか痛快じゃないかと思う。まあ、その前におまえは子供作れって話はひとまず置いといてだね・・・。

同じスポーツにもかかわらず、人によって重要視すべきものが異なるのは、至極当然のことではないかと思う。

例えば、究極の目標として「日本代表の強化」が仮にあるものとする。もちろん、それそのものはとても重要には違いないが、そこに必ずしも到達しなくても良いことだってある。
例えば、若年層のサッカーだってそうで、必ずしもそれが代表の強化に直結していなければいけない、なんてことは恐らくない。

競技スポーツという「器」は「畑」みたいなもの

サッカーに限らず、ありとあらゆる競技としてのスポーツは、それにまつわる競技者たちや競技環境などを育てる「」みたいなものだと思う。
これらの「」が充実してこそ、競技それぞれに独自の「実り」が出てこようというもので、それらのうちで「」に該当するのは、競技環境としての施設だったり指導者だったり、あるいはそれらがもたらすかもしれない雰囲気の充実を指すかもしれない。一方で「実り」に該当するのは、当該選手たち・チーム等の成績の向上とみられる場合が多いが、競技そのものへの理解の広がりだったり、当該選手たち・チーム等が感じる精神的な充実だったりする場合もある。

」に何を求めるか、によって、その行く末は大きく異なっていくものだと思う。重要なことは、「」が有するいくつかの重要な可能性を、決して粗略に扱ってはならない、ということに尽きると思う。
特に若年世代に於いては、せっかくその競技に向かってきてくれている競技者たちをあまり失望させないためにも、「楽しみ」要素を適宜加えつつ、競技スポーツをより深く追求していけば良いのではなかろうか。

そうした中から、特筆すべき実績を残せる選手たちが飛び出してくるかもしれないし、あるいはそういう選手たちの集団、つまりチームが現れてくるかもしれないではないか。

例えば、だ。オリンピックで金メダルを「〇〇個獲得する!」とかを国家的な目標にしてはいけないと思う。ノーベル賞の受賞回数だって目標数値を立てて「〇〇個獲得できるようになりたい!」みたいなことを言ってるが、そんなものは馬鹿馬鹿しいとしか申し上げられない。

スポーツは率直に言えば「娯楽」の一種である

そんなスポーツや文化芸術あるいは学術の成果を、そんなくだらないものの個数で測るべきではない。
スポーツにしろ、学術にしろ、文化芸術にしろ、そうした値とは無縁のものだし、それらからは最も離れているはずのものではないか。あくまでも、オリンピックの金銀銅メダルの個数や、ノーベル〇〇賞の獲得個数などというものは、成果を単純に数値化して便宜的に測りやすくしたものに過ぎない。そして、それらは率直に言ってクソの役にも立ちはしない

もっと砕けたことを言えば、学術は多少位置づけが異なるものの、それ以外の、スポーツにしろ文化芸術にしろ、所詮「娯楽」の一種に過ぎない。それらが鯱張った壮大な目標を立てたところで、それに向かって注力すべき人々と、純粋に楽しみでやってる人々とは、相容れるわけもないので、だったら楽しみの人々にそれらの「鯱張ったやり方」を押しつけることはない。

もしその純粋に楽しみでやっている人々の中から、大きな国家的な目標に近づいていきたいとする人々が出るなら、それらに進ませてあげれば良いではないか。
もしそれの中途で、理由は何であれ、挫折を感じてしまい、自信を喪失したりしても、決して怒ったり非難したりしてはいけない。彼らだって別にそうしたくて自信を失ったりはしていない。何かの理由で、たまたまうまくいかなくなってしまっただけで、その蓄積が結果として彼らから自信を奪っているものだと思える。

そんな時に、元いた「楽しみ」の世界は、どれだけの時間がかかっても構わないので、彼らを温かく迎え入れてあげることが肝要だろう。元いた世界が彼らを拒絶してしまっては、何の意味もなくなる。

スポーツにしろ、文化芸術にしろ、一定数のエリートとされる層は当然いるものと思う。彼らは彼らの活動でそれら自身の価値を高めていければそれで良いだろう。そのための(適度な、つまりヒステリックではない)応援はするのに吝かではない。

だが、スポーツにしろ、文化芸術にしろ、大多数の「趣味としてそれを楽しむ層」も当然存在しているわけだが、それらを否定してはダメだ。
俺は(最近はお休みしているが)ポップス/ロック系の音楽を自作することがあって、それはハッキリ言って趣味が高じた道楽のようなものでしかないが、自分はそれで楽しんでるんだから、他人様から評価される分にはまだしも、あれこれ指図だの命令だのされる謂われはないと思っている。

だって、曲作りだって「てめえの娯楽」だもの。その娯楽にいちいちアホみたいなケチなんかつけられて、気分のいい人なんている?
そんなことをされたら、俺は絶対に気分が良くない。価値観なんて人それぞれだとかなり最初の方に言ったけど、それらの価値観を決して否定しないでもらいたい。

個々人がそれぞれの価値観に於いて楽しいと思いつつやっていることは、犯罪や違法行為、あるいは社会通念上不適切な行為でない限りは、誰からも如何なる理由でも否定されるべきではない。
それらに不快感を覚えるな、ではない不快感を覚えるのはあなたの自由だから、別にいくら覚えてもいい。何なら表明するのもいい。ただ、それをやっている当事者に面と向かって言って否定する必要はない、ということだけだ。

物事に対する合法的な楽しみ方を、頭ごなしに否定することは、誰にもできない。そのことをここに明言しておきたい。

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