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[短編小説] 反射光~一畑電車北松江線伊野灘駅

 松江方面の電車は、まだ20分も先だ。
 ベンチから立ち上がり、木造の小さな駅舎を出てホームに立った。白く霞んだ空に拡散した太陽の光の眩しさに俺は目を細めながら、湖沿いの国道を通る車を次々と見送った。
 遮断機の音が鳴り始めた瞬間、国道端に停まった白い車から涼介が俺に向かって、いつものはにかんだ笑顔で手を振っていた。
 決してもう見るはずのない姿が、確かにその瞬間、俺には見えたんだ…

 「明日なのか?」
 振り向いた涼介の驚いた顔がみるみる遠ざかっていく。
 下り坂に差し掛かったところで突然俺が言うものだから、加速し始めた自転車は、俺からぐんぐん離れていった。
 ブレーキを緩めやっとのことで下り終えて待っていた涼介に追いつくと、涼介は瞬きも惜しいほど俺を凝視した。
 「なんでもっと早く言わないかなぁ、そういう大事なこと」
 「何がどう大事なんだよ」
 「イワ、よく考えてみろ?お前が大阪に行くってことは、今までみたいにそうそう俺とバカやれなくなるってことだろうが」
 湖岸のほうへ視線を逸らした涼介のしかめっ面は、雲間から洩れる黄金色の陽光のせいではないと気付いた。
 「いや、お前も就職控えて大変みたいだし、言うタイミングがさ。それに、俺も早く前に進んでいかないといけないしさ」

 嘘だ。この町からとにかく早く逃げ出したかったからだ。

 生まれ育った町で生きる選択をした彼に対して、その町を捨てていく。実際その時の自分はそのつもりだった、自分の後ろめたさ。
 その思いをうまく隠し通せると思っていた。
 長い沈黙。どうしようもなく下手な俺の言い訳で、子供染みた俺の決断を、涼介はすっかり見透かしてしまった。
 「そうだな、悪かった。でもこんなに早く行っちゃうんだったら、教習所終わってからでももっと遊んどきゃよかったなぁ」
 「ホントだな。結局お前の車にまだ乗せてもらえてないしな」
 「ゴールデンウィークにでも戻ってきたら松江にでも乗せてってやるよ」
 「ははっ。楽しみだな。そんときは給料出てるんだからおごってくれよ」
 3年間続いてきた、いつもの光景に戻った気がした。
 涼介と別れて一人になった後。彼とのこんなやりとりも明日で最後になるのかと思うと、とびきり大切なものをそうであるとも気付かずに、自分の手で破り捨ててしまったという後悔の念に駆られた。
 一つ二つ星が瞬き始めた薄明るい空を見上げて俺は深く溜息をつき、ペダルを踏み締めた。

 遠い未来はおろか明日の自分さえ思い描けないことを、俺は自分の周りにあるもの…親や家族、学校や世の中、この町のせいにしていた。
 毎日のように薄暗い雲が低く垂れ込むこの町に自分がいること、それ自体が許せなくなっていた。
 そんな日々とも、明日でお別れだ。

 卒業式。その後の最後のホームルーム。
 賑やかなクラスメイト同士のメッセージ交換。
 進学する奴。浪人する奴。就職する奴。地元に残る奴。県外に出ていく奴。それぞれの人生が、今日を境に劇的に変わる。そんな日の笑顔や涙は、昨日までのものとは違う、特別なものに違いない。
 俺はそんな感慨深さからではなく、この町の生活から抜け出せる期待から来る高揚感から、誰彼となく饒舌に声をかけ、笑いあってこれからのそれぞれの人生を祝い合った。

 担任の挨拶が終わり、一人、また一人と教室から旅立っていく。俺は机に頬杖して、じんわり紅く色付き始めた桜の蕾を窓からぼんやりと眺めていた。
 「イワ、帰ろっか」
 涼介が俺に声をかけた時には、教室の中には二人しかいなくなっていた。
 校門を出てすぐの長い坂を、ちょっと感傷的な気分を紛らわすかのように、いつもよりも無邪気に俺と涼介は自転車で勢いよく下っていった。
 「今日、何時の電車だ?」
 下りきったところでブレーキをかけて、涼介は尋ねた。
 「昼の2時ちょっと過ぎ」
 ぽつりと俺が言うと、何事もなかったかのように涼介はいつもの調子でペダルを漕ぎ始める。前にも聞いてきたようなこと、大学に行ってから何をするのか、下見に行った時の都会の雰囲気とかを聞いてきて、羨ましい、自分も進学しておけばよかったとか話し続けた。
 就職の道を選んだ彼だって、何度となく進学すべきかどうか迷った筈。口にしたことのすべては多分、本心から出たことなのだろう。
 一方で、俺は就職なんて道を考えたこともなかった。
 社会人への猶予期間を特に意味も考えずに、できるだけ伸ばしたいと思っていただけなのかも知れない。
 つまり、出ていくこと自体が目標であって、その先の展望や目的など、一つも持ち合わせていなかった。

 「じゃあな。落ち着いたら電話でもしてこいよ」
 「ああ、もちろん。お前も頑張れよ」
 「次に会うときには見違えるほどのシテーボーイになってんだろうな」
 「アホかシティボーイだろ。お前だって彼女ができて、俺なんか相手にもしてくれなかったりしてな」
 「それはあり得るなぁ。俺モテる素質十分持ってるしな。男前はつらいわ」
 やっぱり最後もふざけた会話になって、思いのほか二人ともあっさりとそれぞれの道に別れていった。

 昨日のうちに荷物は全部まとめていた。電車の時間までには十分余裕があるうちに大きな鞄を一つ持って、母親と妹の見送りを背に家を出た。
 母親はとにかく寂しそうで、涙ぐんでいたようで…その表情を見ると一大事を引き起こしたことの罪悪感を覚えない訳がなかった。それでもこれでいいんだ、と自分に言い聞かせながら駅へと歩みを急がせた。

 小さな駅のホームにぽつんと立ち、暗く澱んだ湖をなんともなく眺めながら電車が来るのを待っていた。
 「イワ!おーい、いーわーもーとーたーけーしー!」

 線路の向かいに建つ小さなレストランの駐車場から、俺に向かって叫ぶ声が聞こえた。
 「涼介、お前ぇー!なにしてんだー、そんなとこでー」
 まだ春遠く寒い風の中で自転車に跨っていた涼介は、国道を通る車のエンジン音以外、何もないこの場所に響き渡る程の大声で返してきた。
 「そんなもん、お前の門出を見送らない訳がないだろー。お前んちに行ったら、もう駅に行ったって言うからさぁー」
 「そんなとこで叫んだら恥ずかしいだろうがー。こっちに来いよー」
 俺がそう言ったのと同時に、遠くの遮断機の音がカーンカーンと鳴るのが聞こえた。
 「次はいつ帰ってくるんだよー。ゴールデンウィークかぁ、夏休みかぁ?」
 「まだ何にも決めてないよー。お前は土日休みなんだろー。また連絡するよー!」
 「俺さぁー…俺、お前がいないとつまんないよー。帰ってきたら美味いもんおごってやるからなー。必ず連絡しろよー」

 ガタンゴトン、ガタンゴトン…
 松江行きの電車が近づいてきた。涼介の声が少しずつ聞こえにくくなってくる。
 そして、黄色い電車は俺の目の前で停車した。
 俺は湖岸側の席の古い窓をガチャガチャさせて開け、小さく映る涼介に向かって、大声で手を振った。
 「絶対連絡すっからさー。お前も待ってろよー」
 「おぉ!またすぐに帰ってこいよー!」
 電車はゆっくりと動き出した。
 涼介は笑顔を作りながら一度大きく手を振り、俺の視界から消えるまで、立ち尽くしながらずっとこっちを見ていた。

 窓を閉めた俺は、車内の路線図をぼんやりと見ながら、一駅、一駅と、生まれ育った場所から離れるのをカウントした。
 同時に、涼介の無理に作った笑顔から、一駅、一駅と遠くなっているのも、なんとなく寂しく思えてきた。
 ずっと先の未来にある、とてつもない空虚感なんて、その時は思いもしなかった。

 実際その年の夏休みも帰郷して、涼介の白い軽自動車であちこちと遊び回ったし、俺が就職するまでの間、何度も涼介と遊ぶためだけに、実家に戻ってきていた。

 俺は大阪にそのまま居続け、社会人になった。
 人間関係はそれなりに居心地は良かったが、夜遅くまでの仕事が毎日のように続き、心身の疲れは休日だけではなかなか取れるものではなかった。
 俺は買い物で浪費をし、所有欲だけでこの苦しさ、虚しさを紛らわせていた。

 一体、何のために故郷から離れたのだろう。
 俺には、その大義名分が元々なかった。
 ただなんとなく…それだけではこんな現実とは対峙できないことを、10年以上経って薄々感じてきていた。

 涼介と会ったのは、もう5年も前の夏だった。
 涼介は転勤で県内を転々としながらも、順調な生活を送っているように見えた。

 「イワ、お前どうすんだ、家のこと。曲がりなりにも長男だろ」
 「あぁ。分かってるよ。俺、どうするんだろうな…」
 「親さんもそろそろ歳なんだしさ…そもそもさ、帰ってくる気あんのか?」
 「それもさ、よく分からないんだよな。今が楽しいかどうかといえば、そうでもないしな…」
 「まぁ、こっちに戻ってきて、今より良くなる保障は全然ないしな」

 涼介の表情が、少し曇ったように見えたのが、気になった。
 「なんかあったのか、涼介?」
 「ん…まぁ、何年もやってりゃあ、いろいろとあるだろ」
 何かを我慢しているのは明らかだった。
 涼介だって何もかも上手くいっているわけではないんだ。

 「じゃ、イワ、また戻ってこいよ」
 「あぁ。今度はお互い、もうちょっといい感じになってればいいな、涼介」
 「あぁ。そうだな」
 涼介は、俺に握手を求めてきた。
 こんなことは初めてだった。俺は少し躊躇した。
 だけど、それを断る理由なんてなかった。
 涼介の握る手の力が妙に強かったのを、俺は忘れていない。

 ある雨の木曜日、社内で商品の整理をしている時、携帯電話が鳴った。
 母親からの電話だった。こんな時間に何だろう。
 それは耳を疑うような知らせ。
 涼介が死んだ…そんな話ってあるのかよ……

 通夜には間に合わなかったけれど、葬式の当日には間に合った。
 棺の中で眠る涼介は、苦しみからやっと逃れることができたような安らかな表情だったように、俺には見えた。

 何故涼介が命を落としたのか、彼の家族にはとても聞くことができなかった。
 そして、地元の同級生から聞くと、健康上の問題はなかったように見えたようだった。
 悲しい結末は容易に想像がついた。

 あの握手が最後なんてさ。
 こんな別れって、ないよな、涼介。
 お前の母さんの今日の姿を見てたらさ、俺、こっちに帰ってこなきゃ絶対に後悔することになるじゃないか。
 でもさ、涼介…帰ってきたら、俺…誰に色々と相談すればいいんだよ。誰にさ、愚痴こぼせばいいんだってんだよ……

 涼介の幻影をもう一度確認しようとした時、湖面に反射する光でこめかみが痛くなるのとほぼ同時に電車は到着し、扉が開いた。
 キャリーバッグを持ち上げ整理券を抜き取り、車内の窓越しに国道端を見ると、涼介も車ももう見えない。

 「もう、無理しなくても、いいよな」
 目に焼き付いた涼介の幻に、涼介の屈託のない笑顔に向かって瞳を閉じて呟いた。
 黄色い電車は重い金属音を上げながらゆっくりと進みだした。
 止まっていた時間を動かすように。この町に帰って生きていくことを決めた俺の背中を押してくれるような、力強い音で。

(※この文章は、作者本人が運営していたSSブログ(So-netブログ)に公開していたものを転記し加筆修正したものです。)

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