見出し画像

これからの日本の塾の在り方

私は現代の日本の塾に疑問をもっている。

私は普段塾で英語を教える仕事をしているのだが、つい先日ふとしたことから「英語の教え方」について改めて見直してみようと、参考がてらネットで調べてみた。
するとあるサイトの記事中で「塾は成績を上げるところだ」と書かれているのを見つけ、若干の違和感を感じたのだ。

たしかに一般的に“塾”に通う目的は
「目指す高校・大学に合格するため」
「テストでいい点をとるため」
「資格をとるため」...など
であると考えられるし私もその点は同意できる。
現に、駅前には個別指導塾、集団塾、受験対策塾など先に述べたような趣旨の塾がかなり存在しているうえに、そういった目的をもって塾に通う方がほとんどだと思われる。

しかしながら、必ずしも「塾は成績を上げるところ」と断定するのはどこか違う気がする。


「成績をあげる」「○○高校・大学に合格させる」「資格に受からせる」様な手段としての塾、つまり単なる“勉強を教える”ことに固執している塾が今の世の中には多すぎる。
ではどんな塾が必要なのか。

私は、もっとこう、「その先をも見据えた塾」もあってもいいのではないかと思う。
その先というのは、顧客(この呼び方もここではあまりしっくりきていないが)それぞれが持つ塾に入る“目的”の先だ。
これは近代日本の学校教育にも言える話でもあるのだが、テストでいい点をとり、いい高校に入り、またテストでいい点をとり、いい大学に入り、就職活動をしできる限り良い企業に就職するといったいわば「近代日本の理想のモデルケース」のようなものがあるようにも感じざるを得ないが、“目標を達成”するためにその“目先の目標”の“対策”をするのは近道のようで実際には遠回りなのではないか。

たしかに勉強を教えることも大事である。また、通ってもらっている顧客のニーズに答えるのもとても大事だし、そこはむしろ答えなくてはならないと思う。また「近代日本の理想のモデルケース」を進むのも大事だというひともいるかもしれない。

話は若干それ、少々前のことになるが、ホリエモンこと堀江貴文さんが「学校教育を壊す」という発言をきっかけに「ゼロ高等学院」という通信制高校を開校するというニュースがあった。これを見て、「日本の教育を良くしようとする動きが出てきたか」と感じたと同時に、元大阪府知事の橋下徹さんが大阪市長時代に掲げていた「大阪市の教育改革」のことを思い出した。

このいまの日本の教育を改めようとする動きはもしかすると私が生まれてから始まったことではないのかもしれないが、やはり“あたりまえ”というものは非常に恐ろしいもので、少なくともこういった教育を変えようとした橋下さんや、今変えようとしているホリエモンのような人たちが“異端児”と言われてしまう“あたりまえ”があるように感じられ、私は非常に残念に思う。

話が逸れたので戻すが、近年の塾は勉強を教えて“あたりまえ”、教わって“あたりまえ”、点を上げるのが“あたりまえ”、志望校に合格させるのが“あたりまえ”のようになっているがゆえに、ある特定の目的を達成したら塾側・生徒側どちらも「よかったね」ちゃんちゃん、と終わる。ただその目的を達成したあとを教えてくれる塾は聞いたことがなかった(少なくとも私は)。

そういう“(目先の)目的を達成する”という用途としての塾ではなく、「その先」をも見据えた塾もあっていいと思うし、そういったのも含めて「塾」であるべきだと思う。

それは、単なる“勉強を教える”だけ、あるいは生徒たちが受動的に勉強をおそわるのではなく、主体的に思考し、さらにその経験によって“人間的なところから”成長できるようになる塾だ。

これからの日本にはこういったも塾が必要であると強く感じる。

今はまだ“近代日本の教育のあたりまえ”が現代人の“あたりまえ”になっているが、
これからは、そういう塾があたりまえになってほしいし、そもそも“あたりまえ”などないほうがよいのかもしれない。

ひとが何かの枠組みに属していることで安心感を得られる生き物であるという本質は変えられないかもしれないが、「近代日本の理想のモデルケース」という枠組みにいると安心であるという“あたりまえ”はいま“あたりまえ”ではなくなりつつある。
世の中の“あたりまえ”という枠組みにとらわれず、自ら思考し行動しなければならない時代はもうすぐそこまで来ているはずだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?