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すべては水が教えてくれる

水の如くに生きるべし

水は何処にでも流れる
清流も、汚濁も、小川も、大河も、こだわらずに流れる

水は誰にも合わせられる
相手の良いところを得て、何色にも染まる

水は全てを洗い流す
汚辱、混乱、腐敗、あらゆるものを清める

水は万物を育み、実りをもたらす
万物の母であり、父である

水は時に怒る
洪水となって、あらゆるものを一瞬で押し流す

水は必要な時、必要な所に流れ込み
やがて跡形もなく消えていく

全ては水が教えてくれる

上善は水の若し。水は善く万物を利して争はず。衆人の悪む所に處(お)る。故に道に幾(ちか)し。居には地を善しとし、心は淵なるを善しとし、與(あた)ふるには仁なるを善しとし、言は信なるを善しとし、政は治まるを善しとし、事には能なるを善しとし、動くには時なるを善しとす。夫れ唯争はず、故に尤無し。 
『老子』(易性第八)

淵(えん)なる:外から窺い知れないような深さの喩え
尤(とが):咎の意

最も善い生き方は、水のように生きることだ。水はあらゆるものに恵みを与え、それでいて自らを誇ることがなく、他人と争うこともない。水は人が嫌がるじめじめとした汚い所にも流れていく。水はあらゆるものにとって大切で、尊い存在でありながら、謙虚でへりくだって生きる。ここに人間の理想がある。
この世の善い行いとされるものには、地に足を着けて安定した生活を心掛けること。心を円満にして他者と付き合うこと。信頼を失わないように発言すること。暮らしは無事に何事もなく治まるようにすること。いつも全力で能力を発揮すること。タイミングをよく考えて行動すること。等々がある。
そういう生き方をしていれば、誰とも争わず、だから咎められることがない。
『老子道徳教 講義』田口佳史

老子のメインモチーフ「水」の登場である。
私の大好きな章句のひとつだ。

「上善如水」という日本酒の銘柄があることからわかるように、日本人にしっくりとくる表現のようだ。清く美しい清流と共に生きてきた私達は、水という言葉から、純粋性、潔癖性を想起するが、ここでいう水は、それだけではない。

洪水となって一瞬のうちに全てを流し去ってしまうのも水。
汚濁・汚水として滞留し、病原菌の巣窟になるのも水。
美醜善悪のすべてを取り込んだ存在を「水」に擬えている。

そういった水の多義性は、人間とよく似ている。
人間は、長い歴史の中でたくさんの文化や思想を創り出してきたが、それと同じくらい、否それ以上に多くの生物を絶滅に追いやり、自然環境を破壊してきた。その意味で、人間もまた多義的な存在である。

水が人間と違うのは、「黙して語らない」という点に尽きるだろう。人間のように僻まない、後悔しない、愚痴らない。
最上の善は水である、という所以はここにあるように思う。

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