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不善もまた人間である

ペテロは、ガレリヤ湖で漁をしていた時にイエス・キリストに声を掛けられて、最初の弟子となった。

最後の晩餐のあと、「鶏が鳴く前に、お前は三度、私を知らないというだろう」というイエスの予言を受け、涙ながらに否定したが、その通りになった。

イエスは、ペテロの離反をも受け入れながら死んでいった。

その日からのペテロの人生は、イエスの教えを広めるためにあった。
やがて、彼はローマで迫害を受けて殉教した。

ペテロは、不善の人であった。
そして不善であったことを認め、生涯をかけて不善の罪を償い続けた人であった。

ペテロはいま、イエスの筆頭使徒として崇められ、サン・ピエトロ寺院の下で静かに眠っている。

道は萬物の奥にありて、善人の寶(たから)、不善人の保(やす)んぜらるる所なり。美言は以て市(う)る可く、尊行は以て人に加ふ可し。人は不善なるものも、何の棄つることか之れ有らん。故に天子を立て三公を置くときは、拱壁(きょうへき)以て駟馬(しば)に先だたしむる有りと雖(いえど)も、坐して此の道を進むるに如かず。古の此の道を貴ぶ所以の者は何ぞや。以て求むれば得、罪有るも以て免ると曰(い)はずや。故に天下の貴と為る。
『老子』(爲道第六十二)

三公(さんこう):天子を補佐する重臣のこと
拱壁(きょうへき):ひと抱えもあるような大きな環
駟馬(しば):貴人が乗る四頭立ての馬車

「道」はいつも万物の奥に隠れていて見えない存在である。善人が宝とするところであり、不善人もまた気持ちの安らぎを求めるところなのだ。
その言葉は、人生の糧になる至言だから売ることができるくらい価値がある。その示す行いは、人が守って自分のものにするべき価値を持っている。
人には不善なる部分もあって当然。不善だからといってどうして棄てられようか。
天子が立てられ、その下に天子を補佐する最高の官職である三公が置かれ、これらの権力者に大きな玉や四頭立ての馬車が提供されるより、この「道」の教えを進言する方が大切なのだ。
昔の人が、「道」を価値あるものと尊んだ理由は何か。
「道」によれば求められるものを得られ、たとえ罪があったとしても「道」に願えば免れることを知っていたからだ。
だから「道」は、この天下で尊いとされているのだ。
『老子道徳経講義』田口佳史 一部改訂

「人は不善なるものも、何の棄つることか之れ有らん」という一文がよい。
人は不善な部分があって当たり前、それも含めて丸ごと受け止めて生きよう、と謳っているのである。こういうところが老子の魅力である。

私は、この章を読むと、イエス・キリスト「最後の晩餐」にある、ペテロの裏切りの一節を思い出す。

イエスは、一番弟子のペテロが自分を裏切ることを予言する。かといってペテロを責めたわけではない。
ペテロの不善を丸ごと受け入れて十字架にかけられることで、彼への最後の教えとしたのではないかと思う。

ペテロは、その教えを真正面から受け止めて、やがてイエスの教えを布教することに生涯を捧げ、殉教する。
不善の自覚と克服こそが、人生において最も崇高な価値であることに気づいたように思える。

私達人間は、限定合理的な存在である。どんなに熟慮し、考え抜いても、間違えることがある。不善に手を染めてしまうこともある。

だすれば、大切なのは、間違えること、不善であることを恐れることではなく、不完全な自分であることを自覚し、少しでも克服しようと努力することではないか。
そんなことを考えて書いた創詩である。

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