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無名の朴

漆器の上塗り職人だった祖父は
親方の形見だという古びた飯椀を使っていた。

縁が欠ければ補修し、何度も漆を塗り重ねたその飯椀は
お世辞にも美しいとはいえなかった。

もっと立派で見栄えのよい椀を、自分で造ることができたのに
祖父は死ぬまでその飯椀を使い続けた。

親方は、祖父の恩人であった。
まだ若かった頃の祖父の腕を認めて、独立を許してくれた。
仕事を回し、漆を融通してくれた。
結婚に反対する祖母の父親を説得してくれたのもこの人であった。
お陰様で祖父は名工と言われるまでになった。

親方が亡くなった時
祖父は、たっての願いで親方の飯椀を譲り受けたと聞く。

以来、祖父は死ぬまで毎日、その飯椀を使っていた。

彼にとって、飯椀は「無名の朴」であったのかもしれない。

道は常に無為なれども、而も為さざる無し。侯王若し能く之を守らば、万物将に自ら化せんとす。化して欲作(おこ)らば、吾将に之を鎮むるに無名の朴を以てせんとす。無名の朴を以てせば亦(また)将に欲せざらん。欲せず以て静かなれば天下将に自ら定まらんとす。

『老子』 (爲政第三十七) 

化(か)す:感化する

「道」は、作為的に何かを為そうとすることはない。それでいて、すべてのことを為している。諸侯の王が「道」の精神を守っていれば、万民は必ず感化されるであろう。それでも欲望は起きてきたら、これを鎮めるための「無名の朴」に帰るべきだ。まだ修行中だった頃のやるせない自分に帰ることができれば、無用な欲望は抑えられる。欲が静まり、冷静な心になれば、天下は自ずと落ち着いてくるはずだ

『老子』蜂屋邦夫訳注 岩波文庫の訳をもとに改訂

【解説】
この章の白眉は「無名の朴」という表現であろう。
「朴」は、他の章にも出てきたように、伐り出されたままの粗木のことで、素朴な心の象徴である。

「無名の朴」というのは、名もなき存在であった頃の粗削りで純粋な心の比喩である。
素直な頃のありのままの自分に気づかせてくれるもの、原点に立ち帰らせてくれるものである。

「無為」の極意。つまり「為さずして為す」状態に至るために、「無名の朴」を思い出して心を鎮めよ、と老子は諭している。

かつて自身のファミリーヒストリーを調べた時に聞いた祖父の逸話を思い出し、祖父にとっての「無名の朴」に思いを致した詩にしてみた。

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