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比較相対を超えて

のどが渇いた時に一杯の水の旨さがわかる。
打ちひしがれた時だから人の情けが身にしみる。

喜びと哀しみは表と裏の関係。
どこに視点を置くか、どこに視座を取るかの違いでしかない。

きょうの悲運は明日の幸運の前兆であり
賞賛は明日の非難の前奏でもある。

所詮、他者の評価は移ろいやすい。
怒らず、いばらず、自慢せず、妬まず。嘆かず。
ただそこにいるだけで夜道を照らす満月のような存在でありたい。

天下皆美の美たるを知る、斯れ悪のみ。皆善の善たるを知る、斯れ不善のみ。故に有無相生じ、難易相成し、長短相形し、高下相傾け、音声相和し、前後相随ふ。是を以て聖人無為の事に處(お)り、不言の教えを行なう。万物作りて辞せず。生じて有せず。為して恃まず。功成りて居らず。それ唯居らず。是を以て去らず。

『老子』(養身第二)

悪:ここでは醜の意
辞せず:ここでは、自然に対して干渉しないという意
恃(たの)まず:ここでは見返りを要求しないという意

世の人は、咲き誇る花を見て、「何と美しいのだ」という。しかし醜いものとの対比で言っているのではないか。善と悪もそれと同じ.悪と対比して善といっているにすぎない。
人は、何事も他と比較して相対的に見がちである。有るか、無いか。難しいか、易しいか。長いか、短いか。高いか、低いか。大きな声か、小さな声か。前か、後か。その比較こそが心を悩ます原因となる。
聖人は、作為的に優劣を付けるような人為的な見方をしない。無為である。言葉を発することなく不言の教えで導く。(道は) 万物を産み出しているのに、それを自慢げに言いふらすことをしない。自分が産んだものも自分の所有にしない。自らが為したことを恃みにしない。巧成りても、社会的地位に安住することがない。だからこそ功績は末永く消えることがない。

『老子 道徳経講義』田口佳史 抜粋

三行目に「無為」という言葉が登場する。
「無為の思想」は、老子理解の鍵を握る概念として何度も登場するので、是非記憶にとどめていただきたい。

ここでは、「無為」を、作為や人為を超越した次元に身を置く柔軟性、と捉えてみたい。
私達は、知らないうちに比較相対の世界で生きている。あらゆる物事を、他との関係性や比較で理解している。老子は、「無為」という言葉で、この考え方に疑問を提示しているのではないだろうか。

競争社会に生きる以上、他者との比較から逃れることはできない。しかし、時折でもいいので、少し半身になって、比較をやり過ごしてみることも必要ではないだろうか。
他者との比較、序列、評価は、社会や組織にとって不可欠なものではあるけれど、所詮誰かによって形成された人為的な枠組みである。便利な一方で、その枠に縛られて、自由な動きができなくなることもある。

枠を取っ払って、もっと柔らかく考えてみることが、幸せに生きる道につながる、そんな思いで書いてみた詩である。

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