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自分を慈しむ

人は他者・社会の評価を鏡として自らを映し見る。
だから自分への賞賛に喜び、中傷に傷つく。
他者よりも多く、他者よりも賢く、他者よりも豊かになりたいと願う。

小賢しい損得計算は止めにしよう。
他者・社会という鏡を捨て、ありのままの自分を受け止めよう。
自分を認め、自分を慈しんでみよう。

自分を慈しまずして他者に優しくなど出来ないのだから。

賢を尚(たっと)ばざれば、民をして争はざらしむ。得え難きの貨を貴ばざれば、民をして盗を為さざらしむ。欲す可きを見さざれば、民の心をして乱れざらしむ。
是を以て聖人の治むるや、其の心を虚しくして、其の腹を実(みた)し、其の志を弱くして、其の骨を強くし、常に民をして無知無欲ならしめ、夫の知者をして敢て為さざらしむ。無為を為せば、則ち治まらざる無し。  

『老子』(安民第三)

賢:ここでは能力。名声のある者の意
尚(たっと)ぶ:重く用いること

頭の良さばかりを誉めそやしていると、人は小賢しさを争うようになる。分不相応な暮らしを奨励するような世の中では、盗みや犯罪がはびこる。目の前の欲望を刺激してばかりだと、人々の心は乱れ、落ち着かない。
だからこそ、聖人と呼ばれる人は、雑念を捨てて実質を重んじ、思惑に縛られずに本質を追及する。虚栄心や過剰な欲望を素晴らしいことのように吹聴する口先人間を認めない。凝り固まった既成概念や余分な感情を排して、真っ白い心で相手に向き合い、本心をつかみ取ることが重要である。

『老子 道徳経講義』田口佳史 抜粋

【解説】
ここでも「無為」が登場する。
(養身第二)章では「無為」を、作為や人為を超越した次元に身を置く柔軟性、と表現したが、この章では「無為を為す」と、もう一歩踏み込んだ言い方をしている。
直訳すれば、「為さずして為す」ということになる。「無為の為」というのは、なにやら哲学的な言い回しである。

文中には、「心を虚しくして」「志を弱くして」という表現があるが、これはネガティブな意味ではない。訳にあるように、雑念を捨てよ、我欲を忘れよ、という含意である。

「無為の為」とは、虚心坦懐、自分の心に素直に向き合って内なる声に耳を傾けよ、という意味である。そうすれば自ずから為すべきことを為すようになるはずだ、という逆説的なメッセージといえるだろう。

田口先生は「無為の為」をして、注意を深く見守ることだ、と解説される。けだし名言だと思う。「無為の為」というのは、放っておくことではない。かといってあれこれと指導することでもない。自立への道を歩み出そうとする人を温かく見守り、自らの姿を通して、進むべき道を暗示することではないだろうか

若い人達に、「無為の為」を心がけつつ、声なき声を掛けるとしたら、私は何と言うだろうか、そんな思いで書いてみた文章である。

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