花

【掌編小説】花

町の片隅にある小さな公園で、いっぴきのアリが、日常をそれなりに幸せに暮らしていた。
毎日毎日、えんえんと食べ物を巣へ運ぶ。
単調ではあるが、充実した日々。
アリは、公園の中での生活に満足していた。

***

そんなアリの日常に、晴天の霹靂とも言える出来事が起こった。
それは、旅するノライヌが公園にやってきたことだった。
旅するノライヌはアリを見つけて言った。

「やあやあアリさん、君はこんな小さな公園の中で、毎日毎日働いていて気が滅入ったりはしないのかい」

アリは答えた。

「そんなことはないですよ。この暮らしだって、いいことはたくさんあります。何より危険がない」

ノライヌは、「そうかい」とだけ言って、野宿のための仮屋を木切れでつくりはじめた。
アリは素直だったから、「そういえば公園の西のほうに、いい大きさの枝が落ちていましたよ」なんて言って手伝ってやっていた。

***

その後も、ノライヌはしばらくその公園に滞在するようだった。
アリは訪問者を歓迎し、仕事の合間合間で、ノライヌに旅の話をせがんだ。

「この小さな公園の外には、もっともっとすばらしい世界が広がっているんだぜ」

旅するノライヌは、いつも話の最後をそうして締めた。
アリは無邪気に、ノライヌの武勇伝を楽しんでいた。

***

しかしそれから2日たち、3日たち、1週間が経つと、アリは胸のうちがうずうずするようになった。
それは紛れもなく、旅への羨望だった。
アリは、ノライヌの自由な生き方に憧れはじめていたのだ。
やがてアリは仕事をほっぽりだして、ノライヌとずっと話すようになった。

「この小さな公園の外には……」

そのノライヌの台詞は、もはやアリのコンプレックスを刺激する言葉になっていた。

***

そして、10日が経った。
アリがいつものようにノライヌに話を聞きに行くと、ノライヌは仮屋を崩して旅支度をはじめていた。

「ノライヌさん、もう次の旅へ出てしまうんですか」
「ああ、もうここには飽きてしまったからね」

ノライヌはそう言って作業を続けた。
アリはその背中を見ているうちに、いてもたってもいられなくなって、こう言った。

「ノライヌさん、どうかわたしも、連れていってください」

ノライヌはきょとんとした顔をして、そしてすぐに答えた。

「だめだ」
「え?」
「きみは小さくて、ひとりで歩けないだろう。ぼくの旅に、ひとりで歩けないものは連れていけないよ。きみはきみの小ささなりの世界で、小さい暮らしをつづけているのが合っているよ」

そうして、後片付けを終えたノライヌは、さっさと次の旅へ出ていってしまった。
取り残されたアリは、じっと耐えて、そして溜まっていた仕事に取り掛かった。

***

そうしてアリは、また日常に戻った。
しかし、ノライヌと会う前のそれには戻れなかった。
毎日毎日行っている単調な仕事、それにはやりがいを見いだせなかった。

「きみは小さくて、ひとりで歩けないだろう」というノライヌの台詞が心中をこだました。
どうしてぼくは小さいんだ。どうしてこんなに小さな公園で、こんなに小さな暮らしをしなければならないんだ。どうして、どうして。

アリは自分の小ささを憎んだ。
ノライヌが言ったことは確かだった。
アリは小さく、ひとりで旅に出れば、餓死してしまうだろうことは簡単に想像ができた。仲間とともに、縄張りの範囲で生活するしか、アリに選択肢はなかった。その客観的な事実も、アリをくるしめた。

***

そうして悩みつづけたある日、アリは決意した。
それは、自分の小さな世界の中で、旅に出ること。

自分の小ささに悩んでばかりではいられない。
小さな世界の中にだって、まだ見知らぬものがあるはずだ。

アリの歩幅で、餓死する前に巣へ帰ってこれる範囲でも、公園の外、数ブロックは行けるはずだった。
まずは自分の小さな世界をすみずみまで見て、自分の小ささに悩むのはその後でいいじゃないか。アリはそう思った。

決意した次の朝、アリは旅に出た。

***

車に引かれそうになりながら、人間に踏み潰されそうになりながら、アリは進んだ。
途中なんども引き返そうと思った。
それでもまだ行けるはずだ。まだ、ぼくの世界には、見るべきものがあるはずだ。そう思って、アリは進みつづけた。

***

3日歩きつづけたアリは、空腹にくるしんでいた。
もうそろそろ、巣に帰らなければならなかった。
しかし、これという感動に、まだアリは出会えていなかった。ノライヌに植え付けられた、自分の小ささへのコンプレックスがうずく。

もう本当に限界だというところで、ある家の前についた。その家の前にはレンガづくりの花壇があって、アリの目線からは、何が植えてあるかわからなかった。飢えの苦しみを訴える体にムチを入れて、アリは最後に、その花壇を登った。

***

アリが最後の力を振りしぼって、懸命に、懸命に登っていったその花壇の上には、一輪の赤いチューリップが咲いていた。
そのチューリップはこの世のものとは思えないほど可憐に、そしてうつくしく。
そしてその花は、ほんとうに大きく、大きく咲いていたのだった。

読んでくださる方がまいにち増えていて、作者として、とてもしあわせです。 サポートされたお金は、書籍代に充てたいと思います。