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苦手な人との付き合い方

元来、自分は人付き合いの良い人間だと思って生きてきた。

でも、大学に入ってから、人とうまく付き合っていけない事も増えた。人間関係は難しいと思うようになった。

その中で、人との「縁」について考える機会があり、そこで考えた事を整理するために、この文章を書いている。

苦手な人との付き合い方。

「距離を置く」という表現が、今の自分には1番しっくりくる。

別に、その人を一生嫌いになる訳ではないし、その人を一生嫌い続ける元気も、その負のエネルギーを力に変えるだけの性質も、自分には無い。

その人と近い場所にいると、自分の心がヒリヒリする。相手の言葉や一挙手一投足に、自分の心がまた傷ついてしまうと恐れる事から、自分からは近寄りにはいけない。だからこそ、距離を置くという言葉に落ち着いているのだと思う。

どこかで読んだ話。
自分という人生の物語の中には、数え切れないほどの登場人物が現れ、そして消えていく。物語が進む中で、思ってもなかった人との縁が切れてしまったり、逆に長続きしたりもする。

人生、そんなもんだと思う。

これは、人とは一生解り合えないという諦め、自分の事を相手に分かってもらう努力を放棄する事ではなく、現代に生きる自分なりの、自分への処方箋である。

「あいつ、もう良いわ」と言って、その人との縁を切ろうとする行動の裏には何があるのかを、逆に探ってみる。

その行為によって、精神的苦痛から逃れようという思惑がある気がする。または、その人の存在を無かったモノとして扱う事で、自己の正当性を保とうとする(俺は悪くないんだ、と思おうとする)。

しかし、他者がいるから自己がある。周囲との関係性の中から自分が作られる以上、他者を切り捨てる事によって、自己の正当性を図ろうというのは少し違う気がする。

保守派とリベラル派の分断が嘆かれて久しいけど、両者の溝が埋まらない原因はスタンスにあると知人Kは言う。より良いモノを共に作りあげる為ではなく、自己の主張の正当性を相手に認めさせる(相手を屈服させる)事が、目的になっている。互いの意見を重ねる事で、より良い関係を築く、より良い結果を模索することが議論だとすると、それは、勝ち負けを決めるためのディベートだ。

自己の正当性を保つ事が目的化すると、相手の主張を聞く耳が持てない。聞く事ができても、自分の主張を変えることができない。だから、歩み寄れる事は一生できない。なぜ、自己正当化が目的化してしまうのか、それは、そこに自己のアイデンティティを求めてしまうから、だと知人Kは言う。今の不安定な世の中で、自己という存在が揺らいでしまう事への、この上ない不安から、自分の身を守ろうという生存本能が自分に訴えかけてきているのだと思う。

ここで、相手の主張を認める(負けを認める)事は、これまでの自分の言動(その根っこにあるアイデンティティ)を否定する事に繋がるから、それは絶対にできない、という思考回路なのだと思う。

でも一方で、本当にそうか?とも思う自分がいる。自己否定って、本当に悪い事なのだろうか。理想論かもしれないが、自己否定の先に生まれるものにこそ、価値があったりするんじゃないかと思ったりもする。少し話が飛躍するけど、大体の上手くいったストーリーは、何らかの挫折を乗り越えている。これを読んでいる貴方にも、心当たりがあるんじゃないだろうか。あまりやりすぎると、精神的に参ってしまうから、ここは個人差が強く出る所だと思うけど。

大切なのは、挫折を挫折だと真正面から受け止める正直さ、自分の心への素直さだと、ぼくは思う。それが、自分と向き合うという事。相手の主張を受け入れるという事は、相手への敗北宣言なんかではない。むしろ、自分との対話戦争開始の、狼煙の合図だ。向き合うべきは、自分なのだから。

長々と書いたけど、やっぱり、縁を切るって生き方は自分にはできない。何かの縁で出会った人達とは、もちろん会わずに距離を置く事があっても、縁を切らずには生きて行きたいと思う。そして、勝ち負けの論理を置いて、相手の言説と向き合う。相手と向き合うというのは、より正確にいうと、相手の言葉によって自分の身に起きた反応が、なぜ生まれたのか、何が許せないのか、なぜそう思うのか、という自分と向き合う事になるから。

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