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Dual Residence:サくら&りんゴ#2


都庁が遠くにそびえ、坂を下ると神田川。
水平線から朝日が昇り、窓辺で水鳥の飛来を眺めるシムコー湖畔。
そんな東京とカナダ・オンタリオの二重生活を綴ります。

 Big hug  March 2021

蒼いガラス空の翌日は
とろりとした花曇り

昨日は
そうだ、新しいプロジェクトを考えよう
カナダの知人に連絡をしよう
野菜の種をオーダーして
教室のイースターの準備をして
それから春の食材を買いに行こう
そう思っていたのに
今日は気持ちが落ちている

しかし不思議である。そんなときに限って、カナダにいるLaurieからメッセージが届くのだ。
早く起きすぎてスマホを見るとmessengerにポチっと赤色マークがついている。
地球半周回ったInnisfilから杉並に届く、たわいもないメッセージ。

Are you going to do all your tomatoes again?

Laurieは昨年、私に代わってトマトの収穫をしてくれた。湖畔の家の裏庭でまさに鈴なりに熟するのを直前に、私は東京に戻らなくてはいけなくなったのだ。

食べきれない分はピクルスにしたよ。

メイソンジャーに入ったトマトの写真を送ってくれた。本当に、いやになるくらいトマトが育ったのだ去年は。

そんなLaurieから来たメッセージを早朝に読んで、私の心はカナダの湖畔の家に連れ戻された。
相次ぐフライトのキャンセル。空港の政府指定ホテルで三日間完全隔離、その後の2週間の自宅待機、二回のPCR検査という具合に、規制がますます厳しくなっている。そんなことが、カナダに戻ることを億劫にさせていた。
それになんと言っても、東京での生活は楽だったのだ。
この地では、予想外のそのまた予想外の事など決して起きない。多くの事はそのスケジュール通りに進む。ちょっとした変更など、誤差の範囲だ。なんとwell organaizedされた生活だろう。well organized。教室の講師や東京を知る海外の友人たちに何度か言われた言葉である。
日本に住んでいたころは、
それが?
あたりまえじゃない? 
そんな風に思っていた。

私の見方が変わったのではなく、カナダ生活を通して単に、私の予想の範囲が広がっただけかもしれないけれど。

Laurieのメッセージには
Unique seed varietiesのリンクがついていた。ちょっと変わった野菜の種を売っているサイトであった。

夫がいつも種をオーダーしていたカタログは、私と一緒に東京に来ていた。カナダへの帰国を前に、暇を見つけてオンラインで注文しておこうと思っていた。それなのに私はカタログを開けられずにいる。
私たちはいつもカタログが来たその夜に、ベッドのヘリに並んで座ってページをめくった。夫はいつも細かい注意書きを丹念に読んで慎重に選んだ。秋には春の花の球根を、冬には夏野菜の種を。いくばくかの労働の後にやって来る春の花や野菜の収穫。
そんな素朴な喜びを夫は心底愛していた。

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I’m just buying one of each
と、Laurieからのメッセージは続いている。

彼女が注文すると言うので私も種を選ぶことにした。
スマホの画面をスクロールしながらChocolate cherry tomato と Costoluto Genovese というトマトにしようかな。なんだかおしゃれな名前である。

トマトを選んでいるうちに、落ちていた心がふっと軽くなっている。夫と一緒に種を選んでいたときみたいに、気持ちがウキウキッとする。地球半周回ったところでこんな風に自分が役に立っていること。当のLaurieは想像もしていないだろうな。
でもひょっとしたら、彼女は何かを感じたのかもしれない。花曇りの空気にひとり沈殿している私の低―い周波を。
かつて重い病を抱えて彼女は、一度は死を覚悟して、だからこそ何かがわかる。そんな空間に生きている人である。ゆさゆさと大きな体を揺らして元気にやって来て、まん丸の目をさらに大きく開いて快活に話をする彼女からは想像もつかない。

湖畔の家が急に恋しくなった。

私の気持ちを感じ取ってくれる人が意外な所にもいた。
東京で運営している英会話教室の講師である。カナダと違って日本では、家庭でも友人同士でもハグをする習慣がないから、きっと恋しいのではないか、そう言って優しく抱いてくれたのである。帰国して間もない、まだ悲しみに打ちひしがれていた時である。私は肩に頭を沈めて泣いた。それからは、クラスの後に毎回、ハグをあげるよ、そう言って暖かく抱いてくれるのである。そして、じゃあまた来週とさっさと教室を出ていく。
カナダに生まれ育って、あの温かさが無性に恋しくなることを知っているのだ。
Laurieの、夫のPSWだったMargaretの、息子と同い年の若い看護師Shannonの、赤ちゃんの頃から夫がハンティングに連れて行ったErikの、そして30年来の友人であるKim&Wendieの。そんなカナダの身近にいた人々の暖かい体温。そしてもちろん、暖房機のファーニスと呼んでいた夫の。

生きている物から生み出される温度はなんと人を心地よくさせるのだろう。
ざらついた心は絹の手触りとなり、
冷えた気持ちは湯たんぽになる


トマトの種の注文を頼んでから
Laurieに桜の写真を送った。すると
Nothing growing here yet.
と返って来た。
Innisfilはまだまだ花の兆しもない。

Victoria dayが過ぎてから。
野菜の苗を外に植え替える日を、人々は口をそろえて言う。それより早いと霜の降りることがあるのだ。
今年のVictoria dayは5月の24日である。

東京の桜は8分咲き。早くも花弁が、
玄関先の緑のタイルに水玉模様を作っている。

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