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「ポメラ日記35日目(週末詩人とガラスペン)」

・週末に詩を書いてみることにした


 週末を友人と過ごすことが多くなった。大抵の土曜と日曜はいつもひとの家にいる。これまで創作の時間は週末に取っていたので、執筆する時間が取れなくなってしまったらどうしよう、と思っていた。何かいい案はないかと考えたけれど、人前で小説を書くのはどうしても難しいので、平日の仕事終わりにやることにした。


 じゃあ週末はどうするのか、というとちょっと詩を書いてみることにしている。元々、友人は詩を書いていて、僕は小説畑の人間だった。創作でなにかあったときに尋ねてみると、いつも思いもかけない答えが返ってくることが多く、勉強になったりしている。小説好きは小説好き同士で話せばいいかというと、かならずしもそうとは限らない。むしろ、ぜんぜん違う畑のひとと話した方が実りがあったりする。


 僕は小説に親しんできたつもりでいるけれど、詩はまったくの素人で、どのように書くかとか、そういう定型のようなものが僕のなかにはない。だからやってみると何もかもが新鮮で、与えて貰った粘土をこねるみたいに、詩作のまねごとをしている。


 友人によると、詩から小説へと移っていくひとはいるようだけど、小説から詩に入っていくひとはちょっと珍しいらしい。最近、芥川賞を獲った井戸川射子さんも、詩から小説へと入っていったようだ(この間、書店で冒頭だけ手に取って読んだけれど、面白い書き方をしているなと思った)。


 小説を書きはじめた頃、僕はどうやって書けばいいか分からなかった(いまも分かってはいない)。でも、分からなかったからこそ、却ってその大学ノートの白紙に自由を感じた。


 定型がない、ということは詩を作るときにはかなり有利に働くと思う。案外、何も知らない子どもの方が大人よりも優れた詩を書く、ということがあり得る。


 詩はたぶん、小説よりも自由な書き方ができるジャンルだと思う。書いている文章の整合性をいちいち取らなくていい、ただ漠然としたイメージでも言葉や単語の組み合わせ次第で、その見せ方を工夫することができる。


 小説の自由と、詩の自由は、おそらく違うものだと僕は思っている。小説は物語の筋や、文章の流れ、登場人物や世界観などを立ち上げて動かしていく面白さがあるけれど、詩の自由は言葉そのもので遊ぶ感じがする。遊んでいたら、いつの間にか画になっていた、それが詩だと思っている。


 おなじ言葉を使っていても使い方が違う。たとえば小説の一文は、それがどんな文章であれ、行の頭から句読点まで読んだひとに分かるように意味が通っている必要がある(そうじゃないやつもあるけど、小説の「分からなさ」というのは、ひとつひとつの文章が意味不明である、ということではなくて、物語としてみたときに整合性が取れないことに対する面白さなのだ。一文一文の意味は確かに通っているのに、全体として見たときにどうもこちらの理解を超えてくる。そういう不気味さがあるものが、いい小説だと僕は思う)。でも詩では、そういうことがない。一文単位で意味を揃える必要がないのだ。


 実際に書いてみて思ったのは、詩は言葉で描く画のようなものだと思う。伝えたいイメージや景色がひとつ、漠然とでも頭のなかに浮かんでいたとしたら、それだけでひとつの詩ができあがる素地になる。


 一文ごとに意味が通っていなくても、詩は全体としてイメージが相手に伝わればいいわけだから、文章に順番の前後だとか、多少の矛盾があっても、まるごとそれを受け容れてくれる。むしろ、前後の錯綜、矛盾があった方が却って面白い表現になることが多くて、僕は小説よりもこちらの方に適性があるのではないかと思ったりもした。

(最近書いた、『海辺のナポリタン』という詩。4番目に作ったもの。)


 小説だとイメージがひとつだけあっても作品にするのは難しかったりする。小説はある程度の年月と文章の修練を経て書けるようになっていくものだけど、詩の方は言語的なセンスが優れていたら、それだけでものになってしまうところがあるように思う。


 これを怖いとみるか、面白いかと思うのかは分からない。ある意味では残酷で、はじめて書いたときにものにならなかったら永遠にものにならないままかもしれない。ずっと最後までそれで行くかもしれない(僕は小説に対して、ずっとそういう感触を抱いている)。


 詩の世界で天才的な人物(たとえばランボオとか、中原中也。詩的な短編作家という意味では梶井基次郎を加えてもいい)は、比較的若い年齢で大成している。そういうことが起こりうるのは、これは修練とかで身についていく技術ではなくて、そのひとが元々持つ言語感覚が現れやすい表現の形式だからだと思っている。


 平日は仕事終わりに小説やブログを書き、週末は友人と一緒に過ごしながら詩作に挑戦してみたい。平日作家兼ブロガー、週末詩人。そんなまねごとをしながら、いつまでも書くことに親しんでいたい。


・クリームソーダのガラスペンを書店で手に入れる、の巻



 この間、友人と書店巡りをしていると文房具コーナーを見つけた。僕は気が付かなくてそのまま通り過ぎていたのだけど、友人はめざとく珍しいガラスペンを見つけて僕を呼んだ。「空色のクリームソーダガラスペン」というやつで、いわゆるムック本の一種だ。


クリームソーダ、っていう言葉の響きだけで、もう良いよね。



 Twitterなどでも話題になっていたクリームソーダ職人が監修したという触れ込みの商品で、僕も一度このクリームソーダ職人の作り方をまねして、クリームソーダを作ったことがある(とてもいい具合にできた)。


 文具好きでもあるので、ガラスペンは気になっていたのだけど、なかなか値も張るものだし、手が届かないものだと思って諦めていた。本を裏返すと、定価2200円と書かれていて、これだったら買えるかもしれないと思って手を伸ばした。


 ガラスペンとインク瓶、ペン置き、説明書、ポストカード3枚が揃う5点セットとあって、友人と共用で使ってみることにした。


ワクワクが止まらない、空色パッケージのにくい演出。


 ガラスペンを買うまで、どうやって書くかも知らなかったのだけど、どうやらこれはつけペンの一種で、瓶のインクに先端を浸して使うみたいだ。(そういえば芥川龍之介はつけペンであるGペンを使っていたことを思い出した。芥川は万年筆が嫌いだった、というのは有名な話。)


 回しながら書かないと線が一定にならないらしいので、文字を書くごとに少しずつ軸を回してみている。渦状になったペン先からインクが滴ることで書ける仕組みで、いままでにない書き味で面白く感じた。友人は乗せるように書くんだよ、と言っていた。僕はペンを寝かせて書いた。45~60度ほど傾けるのがいいらしい。


 仕舞うときはペンを洗うのだけど、水の入ったグラスで洗うと、これがまた鮮やかな色合いで、書き終わりまでインクの色を楽しめた。万年筆と違って、同じ色を使い続ける必要はなくて、洗う度に違うインクをすぐ使えるようになるので、色々インクを試したいひとには最適だなと思う。またkazumawords.comのブログで改めて紹介する予定。

 ところで、前回の「作家になりたかった僕の、したかった暮らし」の記事が思ったより伸びてきている。よかったら覗いてみてね。

『Panasonic×note #どこでも住めるとしたら』、コンテストに応募した記事です。僕の好きなカポーティの作品にちょっとだけ触れています。読んで気に入れば、スキで応援していただけると嬉しいです。

 今日はこれで。また。

 2023/03/15 19:13

 kazuma

文芸ブログの『kazumawords.com』も更新中です。最近読んだ、呉明益の『歩道橋の魔術師』がかなり面白かったのでおすすめ。短編を書く人にとっては、この本は発見があると思うな。ブログで作品の考察をしています。

もの書きのkazumaです。書いた文章を読んでくださり、ありがとうございます。記事を読んで「よかった」「役に立った」「応援したい」と感じたら、珈琲一杯分でいいので、サポートいただけると嬉しいです。執筆を続けるモチベーションになります。いつか作品や記事の形でお返しいたします。