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「短編小説の初稿ができた」

ポメラ日記 4日目



 先週末に短編第七作の初稿を書き上げた。春先から作っていた原稿がようやく完成に向かっている。前回の短編投稿が4月末だったので、制作期間は約3~4ヶ月。これくらいが僕にとってちょうどいいペースらしい。目下、推敲中。プリントアウトして文章の流れを確かめたり、細かい部分を詰めているところ。

 原稿用紙換算59枚の未発表原稿がいま手元にある。公募に出すことも考えて、一昨日から公募サイトなどに検索を掛けていた。だが、枚数的に条件が合うものが見つからず、応募先を探す中で思うところもあって、noteでそのまま公開しようかと考えている。

 明後日が山の日で祝日らしいので、うまくいけば11日~今週末前後にアップできればいいかな。今年もnoteで創作大賞などのコンテストがあればいいなと思う。ネットに公開したアマチュア作品の発表の場が増えてくることを願っている。

 僕の書いているものは文学賞などで評価されるような文章じゃないし、一般のネットユーザーから需要があるような小説ではないと思う。商業化なんてまったく考えていない文章だ。作品を公募に出すことに僕は矛盾を感じたりする。

 僕は無名のもの書きで、正規の賞を貰ったことはない。それでも地道に公開を続けていると、ときどき通りすがりに読んでくれるひとがいて、そういうときに反応があったり、コメントを貰えたりするのが嬉しい。

 書くことは孤独な作業だし、その作業の果てに読まれるかどうかもわからない。先のことはまったくわからない状態でもの書きは書く。もしかしたら何十、何百時間も掛けても誰にも読まれずに徒労に終わる可能性もある。時間を掛ければ掛けるほど、いい文章が書けると担保されているわけでもない。それでも書くことをやめられないから、書いている。

 僕にとって小説は砂の遊び場のようなものだ。少なくとも作っている間は誰にも文句を言われないし、日が暮れるまで遊んでいてもいい。大人になってそういうことが許される場はほとんどない。僕はそこで小さかった頃の自分を遊ばせているような気がする。あるいは子どもの頃にうまく言い表せなかった想像の世界を、何とか形取ろうとして大人になっても粘土をこねつづけているのだ。

 表向きは、僕はライターになった。小説を十年書いてもプロにはなれなかった。でも、僕が小説を書いてきたのは、書いた文章でお金を貰うためだとか、SNS上で誰かとつながるために書いていたりしたわけではなかったのだと思う。

 僕はどこに行ってもはみ出しものとして生きてきた。何をしても馴染めないし、誰と一緒にいても余りものになるし、ひとがいるところならいつでも僕はのけ者だった。大人になっても居場所なんかちっとも見つけられなかった。僕は未だにふらふらと浮世の端っこで生きている。

 けれども、そういう人間がものを書くことにはそれなりの意味があるのだと僕は思っている。「変なやつ」をずっとやってきたやつにしかわからないものごとがあると思っている。どうしようもなくひとと違ってしまう部分、どう頑張っても埋めることのできない他人との溝、ひとと一緒の歩幅で歩けないところ、僕は日常の中でいつもそれをひしひしと感じる。ときにひとと同じでなかったことを憎みさえした、でも、それこそが書かれるべきことだったと僕は思うのだ。

 生きづらさを小説の中に書くのはそれを読む人にわかってほしいからじゃない。書き手が嘆くために書かれた文章はつまらない。それを誇示したり、負の勲章にしたり、アイデンティティのようにするためでもない。

 それぞれの生きづらさと格闘する中で生まれてきたものは、替えが利かない。ごまかすこともできない。自分の人生のなかで、誰とも取り替えることができず、ずっとわかりあうことのないものごと。芸術っていうのは、それを見たときに「あー、わかるわかる」というような共感のなかにはないと思う。むしろそれとは対極にある、ぜったいに他の誰にもわからないものごとの側にあるのだと僕は考えている。そのことに驚いてしまうような小説が、僕はいい小説だと思っている。僕が目指しているのはそれだ。そんな小説が一編でも書けたら僕の人生は成功だったと思うんだ。

  2022/08/09 19:48

 kazuma

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