『サザエさん』から『SPY×FAMILY』まで。日本家族の変化について。

最近日本の教育と家族について話し合う機会がありました。その際、私はアニメを引き合いに日本の家族形態の変化に関してまとめました。
せっかくなので、そのときのまとめを共有したいと思います。
なお、これはあくまで心理学の学部生のメモ程度のことなのでご了承ください(修士論文レベルでリサーチしていない)。

アニメに出てくる家族を見ていると、日本の家族形態の変化を見て取ることができます。今回は『サザエさん』『ちびまる子ちゃん』『ドラえもん』『クレヨンしんちゃん』『SPY×FAMILY』を例に出してみようと思います。
なお、『サザエさん』『ちびまる子ちゃん』『ドラえもん』『クレヨンしんちゃん』に関しては、皆さんどのようなアニメかは知っていると思うので、詳しい作品説明は省きます。

『サザエさん』は原作が1946年に連載が開始しており、休載を何度か経て1974年まで続いています。アニメは1969年から放送が開始され、現在まで続いている長寿番組です。
長寿番組なので、時代とともに演出が少しずつ修正されています。例えば、昔はカツオが奉公に出るという話がありましたが、さすがに現代でそれは色々受け入れられないため、その手の話はありません。波平さんがカツオに説教をする際、げんこつをするという演出が私が子どもの頃でさえありましたが、最近は意図的に減らしているようです。
『サザエさん』では家族全員がお茶の間に集まることが多く、家族の中心は一家の主である波平さんです。
カツオなどを叱ることは主に波平さんの役目であり、波平さんの妻のフネさんも「お父さんが言ってるでしょう」とサポートする役割を担っています。また、サザエさんも「お父さんにいいつけるわよ」という発言をしています。
波平さんがなぜ一家の主かと言うと、男性で年長者だからです。波平さんがなぜサザエさんやカツオたちの父親かというと、父親だからです。
なに言ってるんだと、思われるかもしれませんが、ここに関しては後述します。
波平さんは事実威厳もあり、教養もある立派な人です。古き良き昭和の頑固おやじです。
カツオとワカメには部屋がありますが、サザエさんや波平さんは遠慮なく部屋のドアを開けてきます。
子どもの空間にはプライバシーがないことがうかがえます。『SPY×FAMILY』では(部屋にアーニャがいないにも関わらず)母親であるヨルさんがアーニャの部屋のドアを開ける際「失礼します」と断っています。
サザエさんの家にはよく人が出入りします。近所の人や親戚が玄関に入ってきます。
これは私の祖母の家がそうでした。来客はほぼ必ず玄関の戸を開けて中に入ってきて、「ごめんください」と言っていました。今でも田舎の方にいけばこのような習慣が残っていますが、プライバシーが重要視される現代においては徐々に淘汰されゆく文化と言えるでしょう。

1960年代にアメリカでウーマン・リブという女性解放運動がスタートします。妻として夫に尽くす、母として当然のように無償の愛を注ぐ、など男性目線の社会の押しつけに対して解放を唱えたのがウーマン・リブです。日本では主に1970年代に運動が起きました。
『ちびまる子ちゃん』は1970年代の世界が舞台です。
まる子の父であるヒロシは一家の大黒柱ですが、波平さんと比べてずいぶん威厳がありません。まる子を叱るのは父ではなく、お母さんの役割です。
まる子とお姉ちゃんは部屋を与えられていますが、それぞれ一人部屋を手に入れることを望んでおり、お姉ちゃんはテレビに出てくる西城秀樹にあこがれています。
このように『サザエさん』のカツオに比べて、ずいぶんプライベートな空間に関心があり、大人とは別の文化(西城秀樹など)に興味を持っています。
この頃から大人と子どもの間に仕切ができてきたことが伺えます。
まる子の学校には多種多様な子どもが通っています。それはキャラクター性という意味ではなく、経済的な部分です。
まる子は自分で自分の家のことを貧乏だと言っていますが、まる子よりも貧乏な子が登場することもあります。
私が子どもの頃見たエピソードで、いつもお弁当を隠して食べている子の話がありました。
幼いまる子にはそれがなんでかわからないというエピソードです。
なぜだか私はこの話をはっきりと覚えており、私と一緒にテレビを見ていた両親が「こういう子、いたなー」とぼやいたことも覚えています。
まる子のクラスメイトにはお金持ちの花輪クンがいます。花輪クンは超がつくお金持ちですが、まる子たちを軽蔑することもなく、逆にまる子たちから除け者にされることもありません。
この当時の日本はお金持ちも貧乏人も同じコミュニティで暮らしていました。
細田守監督の『未来のミライ』と新海誠監督の『天気の子』を見てみるとわかりますが、現代ではお金持ちと貧乏な子が別々に暮らしています。
特に『天気の子』では貧乏な子たちが社会から隠れるようにして生きています。
私が福祉の仕事をしていた時、床に穴が空いたままの家に暮らしている家族や畳を入れていない床板の上で暮らしている家族を訪問したことがあります。
アウトリーチをしなければこのような家族に会うことはなく、このような人たちが社会の隅の方で隠れて暮らしていることを実感しました。
以前社会学の先生と民主主義の成立について話したことがあります。
昔は貧乏人もお金持ちも同じ空間に暮らして互いの顔が見えていたから話し合いでなにかを決める民主主義が成り立った。
今は貧乏人とお金持ちが別々に暮らしているから、お金持ち同士が集まって社会の仕組みを作っているという話でした。
『ちびまる子ちゃん』の世界の学校はより良い社会を作るためには理想的な環境と言えるのかもしれません。

『ドラえもん』は1969年から連載が開始されたご存知猫型ロボットが出てくるお話です。
私たちがイメージするドラえもんのアニメは1979年スタートです。
こちらも長い間放送されているアニメのため時代設定が難しいですが、家電などを見るに、放送当時の時代感を少しずつ反映しているように思えます。
のび太くんの家庭を見てまず驚くのは父親の不在感です。
家のことは基本的にのび太くんのママが行っており、のび太くんのしつけもママが担っています。
のび太くんは自分の部屋を自分の空間として扱っています。
0点のテストの答案を隠したり、プライバシーがある空間です。
そのためママが部屋に入ることを嫌います。それどころかママの足音がするだけでびくびくします。
のび太くんのパパはほとんど登場することがありません。時々のび太くんを叱ったり、人生についてアドバイスしたりしますが、一方でおっちょこちょいに描かれることもあります。なにかに挑戦しようとするもそれがうまくいかず、のび太くんに指摘された際、逆ギレを起こすこともあります。
このような息子と父の関係性は『サザエさん』のときにはなかったことです。
父親不在の家庭は子どもの発達に影響を与えると言われています。
また、のび太くんの母親はのび太くんをガミガミ叱ったりはするものの、具体的なソリューションを提示しません。
例えば勉強ができないのび太くんにどうしたらいいのかという建設的なことは考えません。
のび太くんは「できない」というレッテルを貼られたままただ日々を過ごしていました。
そこにのび太くんのことを親身になって考えてくれるドラえもんが現れたわけです。
ドラえもんのいいところはひみつ道具というツールを使って解決策を提示することです。
それがうまくいかないことも多々あるのですが、「こうすればこうなるのではないか」というヒントを与えてあげることで、のび太くんは自発的に行動をし、(いたずらも含めて)創造性を発揮するようになります。
もう親という威厳だけでは子どもが成長しないことを示しています。
最近の『ドラえもん』ではのび太くんのパパも頻繁に登場するようになりました。大長編ではママを諭すシーンも描かれます。

『クレヨンしんちゃん』は1990年に連載がスタートし、アニメは1992年に始まりました。
今でこそ理想の家族として取り扱われますが、私が子どものころ、まだアニメがスタートしたばかりの頃はPTAから苦情がくる問題のあるアニメでした。
しんちゃんの父である野原ひろしは家庭にあまり関わることがなく、休日も接待ゴルフや飲み会で出かけることが多かったのです。ひろしは他所の女性に鼻の下を伸ばすことも多々あります。
みさえがひろしに「あなたもしんのすけを叱ってよ」とお願いしても、ひろしはテレビを見ながら生返事をします。
そんなひろしにみさえがキレることは珍しいことではありません。
ひろしは休日家にいても特にやることがなく、仕方がないので車を洗ったりして過ごします。
このように夢のマイホームと家族を手に入れたのに生きがいのない父親というのは映画『Shall we ダンス?』でも描かれていました。
父親が父だからという理由だけで威厳を保てる時代はすっかりなくなっています。
1990年代は大人が子どもとの接し方や育て方に悩む時期でもありました。巷では厳しくしろと言ったり、褒めて伸ばせといったり、子育てに関する情報が溢れていました。
作中のみさえもメディアの影響を受けて、あれこれ試します。
みさえがパートをする話もあります。
このように親の姿が90年代に入って激変したように思えます。

2013年の是枝裕和監督の映画『そして父になる』では福山雅治演じる良多が父親とはなにかということに悩む映画です。
劇中では良多の父親である良輔が出てきます。良輔は家系などを重んじ、威厳を保っている古いタイプの父親です。良輔は子どもが生まれたから自動的に父親になったのです。
ところが良多は違います。劇中ある事件に巻き込まれるのがきっかけなのですが、良多は自動的に父親になれませんでした。
良多は良輔のような父親になろうとするのですが、結局自分の価値観が壊れ、自分で努力をして父親になろうとします。
この映画では、もう親は子どもが生まれたら自動的に親になるのではなく、努力をしなければ親になれないということを描いています。

2016年の『葛城事件』という映画では、三浦友和演じる古き良き日本の頑固おやじの父親が子育てに失敗し、家庭が(なんなら社会までもが)崩壊していきます。

2016年には『逃げるは恥だが役に立つ』のドラマが放送されます。
この作品では、夫婦がお互いに話し合いをしながら家族を経営していく姿が描かれます。

『SPY×FAMILY』は2019年に漫画の連載が開始され、2022年からアニメがはじまりました。
このアニメについては少し作品説明が必要かもしれません。
主な登場人物はロイド、アーニャ、ヨル、ボンドです。
ロイドさんはスパイをしており、任務のために家族を作らないといけない羽目になってしまいます。
そこで孤児院に行き、アーニャを引き取ります。
アーニャは実は他人の心が読める超能力者です。
ロイドさんはアーニャに自分の実子であるよう振る舞わせます。
アーニャはスパイの父親であることを面白がり、ロイドさんの提案にのっかるのです。
ロイドさんは任務のためにヨルさんを妻役に誘います。
ヨルさんは実は殺し屋なのですが、偽装結婚をしたほうが得だと思いロイドさんの誘いに乗ります。
ボンドという犬は予知能力がある犬です。アーニャが飼いたいと言ったので飼い始めます。
この家族は全員自分の正体を隠して偽装の家族を演じるのです。
ここだけ見ると荒唐無稽な設定ですが、劇中で描かれる家族のあり方はとても理想的と言えます。
ロイドさんはアーニャを名門校に入学させます。
アーニャはもともと孤児でありまともな教育はほとんど受けていません。くわえて、年齢を6歳と偽りますが、実際のところは4、5歳であると予想されます。
ロイドさんはそのようなアーニャに教育をしますが、なかなか成績がのびません。校外学習を試したりもしますが、ドジなアーニャはなにをやってもダメです。
ロイドさんはそんなアーニャをしつけますが、げんこつをしたり怒鳴ったりしません。長時間お説教をすることもありません。
アーニャが勉強ができるようにあの手この手で工夫をします。
ロイドさんはスパイなので組織の力を使って学校の成績を改ざんすることも容易にできます。
しかしアーニャが自力で取った30点のテストを見て、改ざんすることを辞めます。
なぜならアーニャが自力で勝ち取ったものだからです。
アーニャが勉強がうまくいかなかったときや学校でミスをしたときは、アーニャが好きなハンバーグを作ってやります。
一見甘やかしているように見えますが、これはアーニャが努力して得たものだから怒らないのです。
「良い子」のときだけ褒める教育をしていると、子どもは他人の期待に応えることを目標に努力をすることもあります。
このような動機を他者志向的動機といいます。
いい例では『エヴァンゲリオン』ではシンジ君は他人の期待に応えるためにエヴァに乗り敵と戦います。次第に自分はなんで努力をしているのかわからなくなるのです。
ロイドさんはアーニャが命に関わることに首を突っ込んだときだけは叱りつけます。
ヨルさんもアーニャの成績を心配して、対策を練ります。
勉強ができるヨルさんの弟を連れてきて家庭教師をしてもらうのです。
アーニャは最初は他人から言われたから、家族から追い出されないためにという外発的動機づけで勉強を頑張ります。
あるエピソードで、自分の無知故にロイドさんを危険にさらしたことがきっかけで自分がもっと賢くなれば人を救えるかもしれないと考えて勉強に取り組むようになります。
これを内発的動機づけといいます。
心理学者のヴィゴツキーは子どもの学習には社会・文化を体現する大人との関わりが重要であると考えました。
アーニャにとってロイドさんやヨルさんは血の繋がった親ではありませんが、学習するための機会をくれる良い大人であることが伺えます。
ロイドさんもヨルさんも目標に対して明確な信念があります。
二人共新しいことを学習し能力を高めようとする「学習目標」を持っています。
これとは反対に望ましい評価を得たり、望ましくない評価を避けるための目標を「遂行目標」といいます。
学習目標を持っている人は、知能は努力によって増やしていけると考えている拡大的知能観の持ち主です。
つまり二人共努力をすれば人は成長できると考えています。
反対に遂行目標を持っている人は、知能は生まれつき決まっており、努力をしても変化をしないと考えています。
アーニャは最初自分の超能力を使って望ましくない評価を避ける傾向がありましたが、その考えが変わりつつあります。
これはロイドさんやヨルさんのケアのおかげであると言えるでしょう。
ヨルさんは時々ロイドさんに子育てに対して意見を言います。
成績を上げるために厳しくなりすぎているロイドさんを諭します。
アーニャにスポーツを教えるのはどちらかといえばヨルさんの役のことが多いです。
現代では夫婦で価値観が違うことを良しとする傾向があります。
かつてのように「お父さんが言っているでしょ」という奥さんより、父と母で価値観が違うという方が子どもにとってはいいとされているのです。
ロイドさんは時々ヨルさんを誘ってデートに出かけます。
「母親」であることと「妻」であることを分けているのです。
二人が出かけている間アーニャはロイドさんの友人宅に預けられます。
このような描写は私が今日紹介してきたどのアニメにもありませんでした。
ロイドさんもヨルさんも自分が親としてきちんとできているのかを常に考えています。
豪華客船でアーニャに怒られたロイドさんは「親に向かって何だその態度は」と言わずに、アーニャの心理状態を心配し自分の行動を反省します。
ヨルさんは料理が下手なので、美味しいご飯が作れるように職場の友人に相談します。
このように親が親になるために努力する姿が描かれています。
実の親ではないから当たり前と思うかもしれませんが、前述した通り親が自動的に親になれない現代において、ロイドさんやヨルさんの行動は決して変なことではありません。
現代において家族は自動的になるものではなく、経営しなければならないものなのです。

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