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フィクションとノンフィクションの間 3

第3回『そっけない返信でも相変わらずくる連絡』

ギリシア神話の一大スペクタクル『トロイア戦争』は、かなり関係ない話題から物語がスタートする。

事の発端は、ある神と人間のハーフの娘の結婚式に、縁起が悪いからと言う理由で不和の神"エリス"が招待されなかったことにある。この結果エリスは激怒し、結婚式をめちゃくちゃにしてやるために、『最も美しい女神へ』と書かれた金のリンゴを式場に投げ入れた。そして、ヘラ、アテナ、アフロディテと言う3人の女神がこのリンゴの所有権を主張し出す。ここで、最高神ゼウスはこの諍いを仲裁するために、トロイアの王子パリスに誰が一番美しいか聞いてこい、と3人を諭す。さて、3人の女神に詰め寄られ悩むパリスに、それぞれの女神は自分を選べば、こんな特典があります、とキャンペーンを開始する。その結果、パリスは若さゆえ、アフロディテの提案である、『最も美しい女』を手に入れる代わりに、金のリンゴの所有権はアフロディテにある、とした。しかし、この”最も美しい女”であるヘレネはスパルタ王メネラオスの人妻であったが、パリスはスパルタに駐在している間にこれを略奪愛で寝とってしまう。その結果、スパルタはギリシアの他の国々をも糾合し、ギリシア連合軍がトロイアにヘレネ奪還を目的に攻め込むこととなる…

これが、トロイア戦争の始まりであった。

理由がくだらなすぎる。

この物語をきっかけとして、欧米で「不和の林檎」という言葉は、小さな出来事が大事になることを表す言葉となった。
しかし、事の発端を『エリスが金のリンゴを投げたから』とするのは、本質を見抜けていないかもしれない。

エリスを仲間はずれにしたのが原因ではないのか???

エリスは不和の神であるから、当然不和を引き起こすことに成功したわけだが、むしろ結婚式にエリスを招待しない、と言う選択がこの事実を引き起こしたことに注意されたい。このような事象について、これは決して物語だけの話ではない。

結果として相手の負の側面を自分から引き出すバカがいます。

当然、嫌いな人間や苦手な人間に足しては、その人間の持つ負の側面に着目しているからこそ、嫌いだったり苦手だったりするわけである。
しかし、そうした負の側面がいかに発揮されるかについて少し冷静に捉えてみよう。

ここから本題の『そっけない返信でも相変わらずくる連絡』について考える。
我々は、自分の苦手な人間に対して、果たしてニュートラルな向き合い方をしているのか?
答えはNOだろう。どんなに公平な人間もバイアスを排除することできない。しかし、ここで最大の問題となるのはそうした相手への返答である。
一般に、話を長く続けたくなければ、そっけない返事で返すと言うことが主流になっているだろう。こうすれば、明確に相手を拒否することなく、一方で自分が会話を続ける意思がないことをそれとなく示せる…

しかし、このような考え方は、前述のトロイア戦争のきっかけのような結果を引き起こすかもしれない。

まず、なぜそっけない返信が”明確な意思表示ではない”と言えるのか?
それは、『単に元からそっけない人の可能性もあるから』である。
しかし、そのような言い訳を自分に用意すること自体が、相手にも言い訳の機会を与えていることに気づかなければいけない。

例えば、あなたが、苦手な相手からの連絡に対しそっけない返信をして自身に会話を続ける意思がないことを仄めかしたのにも関わらず、依然として苦手な相手から連絡が来ていればどう思うだろうか。
『察しが悪いなあ』とか、『空気が読めない』とか考えているならば早急にその考えを改めた方がいいかもしれない。
そう、相手は実はあなたの意志に気づいている可能性を否定してはいけないのである。

こう考えると、しつこい連絡は別の意味が見えてくる。すなわち、相手の醜い側面の発露である。あなたの『そっけない返事』という拒絶に『しつこい連絡』という金のリンゴを投げつけられている、という実態が見えてくるのではないだろうか?

うわぁ…と思うかもしれないが、残念ながらこうした態度を否定することは難しい。なぜなら、『しつこい連絡』をする側にもそっけない返信が”明確な意思表示ではない”が故に、言い訳をすることが出来てしまうからである。
『よもや私のことが嫌いだとは気づかなかった』と。

私は、結果としては不和の神でも結婚式に招待した方がトータルの問題は少なくなる可能性を指摘したい。

まず、自身が拒絶という態度を示しているのに、それをオブラートに包むことで罪逃れをしてはならない。ただの卑怯な逃げであるばかりか、相手につけ込まれる余地を発生させるだけである。ましてや、自分から話したくないことを明確にせずに、相手に『察する』ことを要求すること自体が無礼なことに気づいた方が良い。これでは、相手をエリス化させ、面倒で醜悪な側面を助長するだけである。

仮に我慢ならないほどに嫌いなら、はっきり『お前が嫌いだ』と突き放した方が、後々楽だと考える。こうした方が、相手に付け入る余地を与えない。さらに、自分が一種の悪者になることで相手を満足させることができる。
大切なのは、『悪者になる勇気』である。事実、人を拒絶するならその程度の責任を持つべきだろうし、それすらしないで相手にそのボールがあるかのようなふりをして自滅する馬鹿は当然の帰結に踊らされた道化に他ならない。

そこまで嫌いでないなら、相手を完全に排除しようという試みは諦めるべきである。自分から関わる必要は全くないが、相手の醜悪な側面を自分から助長して、それを自分に向けられるぐらいなら、相手をSome of themのままにしておく方が、自分の負担も少なくて済む。

人間は敵意を向けられれば、そう安易と引き返してはくれないだろう。向こうも敵意を持って応戦してくることは人類の歴史が示している。
ここで重要なのは、オブラートに包めば敵意ではないという考えは捨てるべきだとうことだろう。

さて、エリスは『イソップ物語』にも不和や争いの寓意として登場している。

へラクレスが旅をしていると、狭い道に林檎に似たものが落ちているのを見て踏み潰そうとした。しかしそれは倍の大きさに膨れ、もっと力を入れて踏みつけ棍棒で殴ると、さらに大きく膨れ上がって道を塞いでしまった。呆然と立ちつくすヘラクレスのもとにアテナが現れて言った。「およしなさい、それはアポリア(困難)とエリス(争闘)です。相手にしなければ小さいままですが、相手にして争うと大きく膨れ上がるのです

『イソップ物語』第316話「ヘラクレスとアテナ」


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