大切にしたい感覚”匂い”
先日、15年ぶりにサンディエゴを訪れた。10月中旬というのに日差しは強く、日中は30度を超えていた。前回サンディエゴを訪問した時は、実験に行き詰まり藁にもすがる思いの弾丸出張だった。私の住んでいる中西部のシカゴと西海岸のサンディエゴとの時差は2時間、飛行機で片道4時間。早朝暗いうちに出発し、その日のうちに最終便で戻った。時差の関係でシカゴに着いたのは翌朝の4時半だった。もちろん日差しを楽しむとか、海を見るとかという余裕も全くなかった。2月だったので、ただ「暖かいなあ」と感じたことを覚えている。
匂いと記憶の深〜い関係
その当時、私は記憶のメカニズム解明に興味を持っていた。当然ながら培養細胞では記憶実験はできない。記憶実験にはどうしてもマウスが必要になる。マウスの記憶実験には「恐怖条件付け学習(Fear Conditioning)」という方法が古くから使われてきた。マウスをケージの中に入れ、しばらくしてから非常に軽い電気ショック(2秒)を足に与える。これを2分おきに3回繰り返すというものだ。マウスはこれが大嫌い。次の日、マウスを前日と同じケージに戻すと、そのケージを覚えているマウスは恐怖のあまり、電気ショックなしでも足がすくみ動かなくなる(Freeze)。このFreezeしている時間を記憶の指標にしている。この記憶は生涯消えることがないと言われている。
しかし、私がいくら実験を繰り返してもマウスは記憶できたりできなかったり、、、データはばらつきが大きく、まったく使い物にならなかった。しかも、このばらつき、個体差なのか実験手法によるものかもわからない。メールで全米中の色々な研究室に問い合わせ、様々な方法を教わり試したが、データのばらつきは一向に改善されなかった。
藁にもすがる思いで、私は電撃でサンディエゴにある有名な研究室を訪問させてもらうことにした。実験室に入った瞬間、あることに気づいた。そこはレモンのいい香りがしていた。彼らはわざわざアルゼンチンから取り寄せたレモンオイル使っていた。なるほど。マウスは電気ショックを受けたケージとレモンの匂いを連動させて記憶していたのだ。その夜シカゴにすっ飛んで帰った私は、そのレモンオイルをすぐに注文した。データのばらつき問題は一気に解決した。考えてみれば、マウスのように嗅覚が非常に優れている動物が匂いによって場所を判定しているのは当然のことだったのだ。
私たち人間もそうだ。自分の家、友達の家、おばあちゃんの家、それぞれ特有の匂いがある。目を閉じていてもその匂いで、どこにいるかがわかる。マウスが匂いを頼りに記憶を構築していることを、人間である私は、同じ匂いを嗅ぐことによって再認識した。なんとも滑稽な話である。
そこに行かないとわからない匂い
先日、ここシカゴで知り合った日本人の方(私の父と同年代)から、興味深い話を伺った。彼は旧ソビエト連邦(現ロシア)、東ヨーロッパの旧共産圏の国々を中心に自動車関連の仕事をされていた辣腕ビジネスマンだった。「共産圏の国に近づくと、飛行機の中にいてもある共通の匂いがする。ぜひ一度行ってみるといいですよ」と彼は言っていた。レモンオイルなら取り寄せれば同じ匂いに触れることはできる。しかし”国の匂い”は絶対にその場に行かないとわからない。この言葉はとても印象的だった。
ジャーナリズムの世界に「コタツ記事」という言葉があるそうだ。「コタツに入ったままでも、ネットやテレビの情報をもとに書ける薄っぺらい記事」といったニュアンスで揶揄された表現のようだ。私たちのようなベンチャー会社もいろんな情報をもとに机上で論理を構築している。一歩間違うと「コタツ科学」になってしまう危険性をはらんでいる。コタツに入ったまま得られる感覚は五感の中の二つに過ぎない(視覚、聴覚)。つまり5次元の情報が2次元に圧縮した状態で届けられるということだ。
我々のようなベンチャー会社の資金は限られているので、人は雇わず、研究室や機材も全く持たない。そのほとんどすべてをアウトソーシングで賄い、自分たちの論理の正当性は第三者に検証してもらっている。自分で手を動かさないので、やりながら新しいことを思いつくこともない。道草という遊びが全くないのである。だから、私はアウトソース先の人や共同研究者にはできるだけ直接会って話をするように努めている。サンプルの解析依頼の際にも、自分で車を運転し、その人に直接渡す。その場にいないとわからない匂いをできる限り直接感じ取ろうと努めている。
大切にしたい”言葉で表せない感覚”
15年経った今でも、レモンの匂いを嗅ぐたびにサンディエゴの研究室を思い出す。「胡散くさい」「嘘くさい」「鼻が効く」など日本語では、人を判断するときに匂いに関する言葉が度々登場する。なぜかはわからないけれど何となく感覚的にそうじゃないか、と思うときにこの言葉が使われる。
積み上げられた事実に基づき論理を構築していくことが大切であることは言うまでもない。しかし技術の大きな飛躍は、口では説明できない匂いのような感覚や、それをも超えた「第六感」が生み出す一瞬の閃きによるところが大きいのではないかと思っている。
今回のサンディエゴの旅では海、自然、天気を十分に満喫できた。窓から見える太平洋に沈む夕焼けと海の匂いは内陸のシカゴでは決して味わえないものだ。我々のようなベンチャー企業は技術が全て。新しい技術を生み出し続けなければ、相手に興味を持たれることはない。新しいものを作り続けるには「匂い」のような鋭い感覚を持ち続ける必要があるのではないかと思っている。「そこに行かなければ決してわからない感覚」、これを大事にしていきたい。
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