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拝啓、見られることが怖かった過去へ。

誰しも憧れのビジュアルというものがあると思う。

私の場合は、日本人離れしたパッチリ二重の顔に、天然パーマの茶色い髪の毛を二つ結びのお団子ヘアにした、そんな幼馴染の容姿が幼い頃の憧れだった。

憧れに対して私の見た目は、奥二重(見た目ほぼ一重)の完全な日本人顔で、黒くてまっすぐな髪の毛は、かわいいヘアアレンジをしようとしても、スルスルと解けてしまうので、大体いつもおかっぱ頭だった。

決して破滅的な不細工として生まれたわけでもなく、五体満足で大きな病気もなくここまで生きてきたのだが、やはり自分の理想と大きく違う自分の見た目に、多少なりコンプレックスを抱いていたのは言うまでもない。

大好きな幼馴染は、本当にかわいい子だった。

頭も良く性格も優しい子だったので、いつも周りに友達が集まっていて、それが当たり前だよな、と私も思っていた。

彼女は可愛い。私は可愛くない。

どうやったら彼女のように可愛くなれるのだろうか?

せめて勉強すれば、少しは彼女のような人間に近づけるだろうか?人に優しく接することができれば、憧れの人のような人間にはなれるかな?

などと、幼い頃なりに色々考えて過ごしたものだ。

でも、どんなに頑張っても一重の瞼は変わらないし、丸い顔は丸いままで、クラスの集合写真を見ても、自分の顔は他の誰より可愛くなく見えて、私は段々自分の容姿を他人に見られたくなくなっていった。

 

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自信の持てるものを別にシフト。本当に魅せたいものとは?

可愛い顔になりたい、と思いつつもどうすれば可愛くなれるのかわからず、そもそも私がどうにかしたかったのは整形レベルの問題で、メイクや自分の努力でどうにかなる範囲のことではなかった。

理想とは得てして、自分に無理難題を叩きつける事があるものだ。

特に思春期というのは、その人の持つ素材そのものの良し悪し(というと語弊がありそうだが、ザックリした意味で捉えて欲しい)で判断されるところがあるので、大人になって磨けばまた変わるものも、原石の状態で色々判断してしまう部分がある。

それでも、高校生にもなると多少化粧などもするようになり、自分の持っている素材で勝負するしかない、という覚悟も徐々に固まっていく。

その延長線で、いわゆる「外見より中身勝負」というフレーズを信じて、自分が自信の持てるものに全力でパワーを注ぐ生活をするようになると、不思議と外見のコンプレックスも、だんだん愛せるようになって、いわゆる自己肯定感が高まってきた。

私は、絵を描く私が好きで、そこに真剣に向き合う自分を愛している。

制作する作品には本来の私が表現されていて、どんなテーマでどんな絵を描こうと、全ては私の世界なのだ。

「他人に見せたいのは絵の世界の私であって、現実の私はたくさんの人に知られる必要はない。」勿論見た目をおざなりにする気はなかったが、見られたいものを絵の世界とする事で、自分自身の姿を見られることから、無意識に逃げたのだ。

本当は、自分の姿も絵と同じように晒したかったのに、見て欲しかったのに「可愛くないから、綺麗じゃないから見られるのが恥ずかしい」と思い、自信の無さから隠そうとしていた。

しかし、私は自分が逃げていることに気付いてしまった。

気付いたからには逃げるわけにはいかない。

自信の持てる自分になって、私自身も絵と同様世の中に晒して生きていく。

元々自分の描いた絵を人に見てもらっている時点で、私自身は飾ることもない丸裸な自分を晒しているようなものだったのだ。

だからといって裸を晒しますっていう話ではないが…単純に「可愛い」や「綺麗」で括られる人間ではないのも承知しているので、いわゆる個性となんらかの魅力でもって魅せられる人間になるぞ、という決意表明だ。

見られることにコンプレックスを感じているより、魅せるために自分を磨くと決めてからの方が、よっぽどポジティブな気持ちで生きられる事に気づけたので、今は結構幸せなのかもしれない。

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