見出し画像

アイルランド貧民の子が…

もし、あなたが海外文学に触れてみたいが何から手を出して良いやら?とお困りであれば、私が心の師と勝手ながらに仰いでいる柴田元幸先生が翻訳、選書して下さっている、スイッチ・パブリッシングから出版されているマスターピースシリーズを何よりもお勧めしたい。
(とにもかくにも、このシリーズは装丁がカッコいい!)

私は全く持って熱心な読者とは言えないが、どうにもこうにも行き詰まりを感じた時に常々辿り着くのが、柴田先生が伝えて下さる海外文学の世界なのである。
そして、自分がちっぽけに見えるほどのロクデナシ達が登場する海外文学の世界に、私は何よりも励まされるのである。

一、二年前に行き詰まっていた時に、カッコいい装丁に惹かれて、柴田先生の「アメリカンマスターピース古典編」を読んだのだが、どれも面白くてビックリしてしまった。ホーソン「ウェイクフィールド」、メルヴィル「書写人バートルビー」あたりは、ニートやフリーター的な病の芽が既に芽吹いていて、百年近く前の作品にも関わらず、ただ肯き共感し、ほくそ笑みながら読んだ。

そんな前作の満足もあり、今回も間違いないだろうと読み始めてみたのだが、冒頭から度肝を抜かれてしまった。
因みに私は恥ずかしいことに、英文学への教養は皆無に等しい。(全く持って嘆かわしいことだ。そんな私がこの本について語る愚をどうか許して頂きたい)

まず私が読んだのは、ジョナサン・スウィフトの『アイルランドの貧民の子供たちが両親及び国の負担となることを防ぎ、国家社会の有益なる存在たらしめるための穏健なる提案』だ。(タイトル長い…)

先にも書いた通り、私は英文学の知識はほぼ皆無だ。タイトルからするに、これは恐らく昔の文人が政府などの公的機関に対して、庶民の実情を訴えた嘆願書の類であろう。
そして、それがあまりの名文だったのできっとここに掲載されたのだろう、という先入観を持って頁を巡った。

因みに、私が受けた衝撃をあなたに追体験して頂く為に、この作品に私が触れた時の私を取り巻く状況について説明したい。

その時私は子供について考えていた。

私は子供がいないので、子育てについては英文学についてよりも更に何の知識も経験もない。そんな私がふと考えたことなので、どうか気を悪くせずに読んで頂きたい。

こんなことがあった。自宅マンションの住人に、小さな男の子とその母親がいる。私はその二人とマンションのエレベーターで一緒になった。小さな男の子はやんちゃそのものでベビーカーに乗りながら、エレベーターの壁をガンガン蹴っている。男の子はエレベーターの行き先ボタンを自らの手で押せなかったことに腹を立てたようだ。母親は周囲に謝りながら、男の子に行き先ボタンを再度押させてあげる為に、もう一度エレベーターで階下に降りて行った。

さて、この男の子には、どういう躾が必要なのだろう?
ただ同じマンションの住民としてはエレベーターは共有の財産であるのだから、それを傷付けるような行為は止めるよう、親にはしっかり叱って欲しい。
私は「君のご両親は、このマンションに住む為に何千万かのローンを組んで、一生を会社に捧げているんだよ、その場のイライラを公共物にぶつけて万が一破損させたら、君のご両親はもっと負債を抱えちゃうんだよ、だから壁を蹴飛ばすのはやめなさい」と言って聞かせてやりたかったが、私もいい大人なのでそんなことはせずに、クソガキににっこり微笑んでおいた。

一方で母親の忍耐強さには感心した。不成熟な母親であれば頭を一発引っ叩いて「いい加減にしなさい」だろう。

しかし、この男の子はこの先どういう子に育つのだろうか。可愛らしい顔をしているので、大人になっても持ち前の可愛らしさで我儘や横暴を周りに強要する大人になるのか、それとも自分の言うことをしっかり聞いてくれる両親に育てられ、自己肯定感も高く、周りにもその愛情を還元する天下無敵な大人になるのか、私には到底子育ての正解も、他人の子の行く末も皆目検討がつかない。

また先日、例の池袋の交通事故で妻子を亡くされた方のツイートを見たのだが、亡くされたお子さんと、そのお子さんを共に育てた奥さんから多くの学びを得たというツイートを見て、思わず泣きそうになった。
先の例からすれば、子供というのは煩わしいもののようにも思えるが、こんなにも豊かな感情を人に抱かせるものかと、子供に対して相反した思いが私の中に同居した。

さて、そんな風に子供についての思いが頭の中を巡っていた時に、私はこの「アイルランドの貧民の子供たちが両親及び国の負担となることを防ぎ、国家社会の有益なる存在たらしめるための穏健なる提案」を朝の通勤電車の中で読み始めた。
私の前の優先席に小さな女の子と父親が座っていた。女の子は5、6歳、父親は40代後半だろうか。女の子は足をバタバタさせながら、窓の外を覗いている。父親は国語の問題集のようなものを娘にやらせようとしているが、娘は一向にその気にならない。

「〇〇ちゃん、そうやって直ぐに投げ出すからできないんだよ」と父親。
「まだ外みてたいのぉ〜」と女の子。
女の子はひたすら地下鉄の窓の外の暗闇を見つめながら、足をバタつかせている。父親は仕方なく、自分で娘の問題集を解き始める。

そんな光景を見ながら、私は父は、娘はどうあるのがお互いに幸せなのだろうか、欠陥だらけに思える社会通念を娘に教え込むべきなのか、社会通念などに娘を染めず天真爛漫な感性のまま育っていくべきなのか。勝手な、全くの赤の他人だからこそ可能な思案を電車の中の親子を眺めながら、ぼんやりと考えていた。

本の中の世界でも、1729年のスウィフトが子供達をどう処するか思案に暮れている。曰く社会は貧困に喘ぎ、幼子を抱えた貧民達に溢れている。子供達は5、6歳になると泥棒稼業に手を染めるしかない。それどころか、泥棒稼業で食べていける優秀な子供はわずかで、身売りをしたとしても大した額にはならず、それまでの養育費を考えれば親にとっても、国にとっても子供を持つことは採算のとれないことだとスウィフトは論じる。

ここらへんまでは、文語調の堅苦しい文面ながら読みやすく、ほうほうそれでどうなると思いながら次の行にいくと「ここで私案を述べさせて頂こう」ときた。(私案とは子供が増えすぎて貧困を招いているという問題に対してスウィフト提案の解決策のことである)

曰く、子供を食材にせよ

と言うのである。
私は前述の親子を眼前にしながら、この言葉を目にしてとても驚いた。思わず地下鉄車内で一人で「えっ」と口に出してしまった。
本の中では、引き続き子供を食材にするとどんなに良い経済効果があるか、概数で大まかな根拠まで示す始末。
そこいらでスウィフト?スウィフト?あっ『ガリバー旅行記』のと遅まきながらに気づいたのである。
そして漸く、この文章が嘆願書の類ではなく、小説だったのかと気づいたのである。

さて、巻末の柴田先生の解説ではこの『アイルランド貧民〜』は文字通り人を食った文章と評されている。夏目漱石も『文学評論』という論文集の中で「スウィフトと厭世文学」という論文を書いているようです。

こんな面白いモノ、もっと早く教えてくれよと思いながらも、これは確かに国語の教科書に載せるわけにはいきませんね。
そんなことを考えていると、目の前の女の子がバタバタと私の足を蹴飛ばしてきた。
「もういい加減に宿題やりなさい!」と叱る父親。いや、注意するのそこじゃないだろ。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?