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橋の上で、通りすがりのおっさんに「ケセラセラ」と囁かれた。

人はネガティブなものに飛びついてしまう、らしい。
だから、「〇〇はヤバい」とか、「〇〇はオワタ」とかのブサイクな文言に引き寄せられてしまうのだとか。

ぼくもこのままいくとマズイんじゃないか、という漠然とした不安がある。
でも、果たして本当にそうなのだろうか?

人生の進み方を理詰めで捉えようとする人がいる。全てを計画的に、勤勉に。
その規律、克己心に本当に頭が下がるし、そういう生き方のできる人を尊敬します。

でも、ぼくの人生観は違う。

人生には、自分がコントロール出来ないことのほうが多いんじゃないか。
そりゃあ、自分でできる範囲の努力はすべきだし、なんでもかんでも他人や社会のせいにしてばかりいる人はどうかと思う。

一見輝きに満ちている人も、実はネガティブなものを抱えていたり、なにも目立たない人が、実は凄い充足感に包まれていることだってある。

将来の安定の為に、いま生きる喜びを見失なってしまうことだってある。
思えば学生の頃から、そう教育されているから。
いい学校に入る為に、今勉強を頑張りなさい、と欲求不満が溜まってそうな教師によくいわれたものだ。

そもそも人は、いつか死ぬと分かりながら生きるのだ。これ自体が矛盾しているのに、なぜ他の矛盾に寛容になれないのか?

未来を怖がり、不安に思って、備えに備えて、私たちの先祖は今まで生き抜いてきた。だけど、不安に思い過ぎて、自らの命を絶とうとしてしまう人もいる。

先のことは考え過ぎると疲れてしまう。
たしか「モモ」の階段掃除人の言葉かなにかで、

「どうしてこんなに長い階段掃除をやり終えることができるの?」

と尋ねられると、階段掃除人は

「先を見ると疲れてしまう。だから、目の前の階段を掃除することに集中する。すると、いつの間にか、全て終わっているのさ。」

と答えた、というエピソードがある。

ぼくは、この階段掃除人の考え方が好きだ。
途方もない不安を抱えている時に、更に途方もない不安を重ねたって、しょうがないじゃないか。

未来を見通せるわけでもあるまいに、不安を煽る商法で人の価値観を画一化して、人様の可能性を否定することに精を出す輩がいるが、自分の人生楽しむのに時間と労力使えば良いのにって思う。

ぼくは自分の生き方に口出しされるのが大嫌いだ。だから、他人の生き方にも口出ししたくない。
「そんなことやったって無駄だって」
と、ぼくが偉そうな顔して助言して、その後、言われた相手が、羨ましい成功をおさめたという恥ずかしい思い出があるからだ。

なんとも纏まらない文章になってしまった。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

また、どこかで

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