生きていれば多くの人は働いて金を稼ぎ、それをもとにして生活を送っていかなければならない。まず衣食住を過不足なく整えたうえで、余ったお金を楽しみに遣う。それが世の理だとは分かっているが、継続的かつ集中的に哲学の本を読み思索を深めることと、現代世界の労働は相性があまり良くない。現代世界の多くの労働は時間を細切れにし、分単位で行動を制約し、一度に複数の事柄を同時並行的に片づけていくことを求める。そういうわけで、それなりにがんばって仕事を続けると、日々の疲労が徐々に蓄積され、たとえ休日であっても込み入った内容の本を2時間以上連続して読むのはとても困難になる。心身がくたびれていて、集中力が維持できないのである。そしてなぜここで2時間という具体的な数字が出てくるかというと、実際にぼく自身でおおまかに計測しているからである(計測期間は5月末からきょうまでの約1か月)。

ぼく自身は病の後、離婚して、実家に戻ってから5年が経つ。というわけで、老いた両親と一つ屋根の下に暮らしているわけだ。だからフルタイムでしゃかりきになって、生活費を稼ぐ必要も(今のところは)無い。そういう意味では気楽な身分なのだが、両親の貯えもそうあてにはできそうにないし、やがて父も母も死んでしまう。親が死んだあとは、この家をどうするかなど諸問題が押し寄せ、そのあともぼくは―大病や事故などが無ければ―有ってもか―寄る年波にときに抗い、ときに押し流されて暮らしていかなければならない。そう考えると、もう少し待遇の良い仕事をめざして、労働に重きを置いた暮らしに心身をむけていくのが筋のような気もする。しかし、それではますます心身への疲労の蓄積の度合いは高まり、休日など寝たきりスズメになってしまい、生きる喜びもなく、ただ息絶え絶えのありさまで老いていくだけであろう。もうそういう暮らしは嫌なのだ(うつ病を抱えながら必死に仕事にしがみついていたサラリーマン時代を思い出している)。

というわけで、働きながら熱心に本を読んでいる方には共通のジレンマはぼくの問題でもある。より多く働き、生活の安定をめざすか。それとも、現状維持か。あるいは、労働時間を減らし、ギリギリの生活の中で、読書に邁進するか。おおまかには選択肢はこの3つだが、遅かれ早かれある程度道筋を定めなければならない。まあ、現状では新しいアルバイトを始めて生活がやや安定してきたところだから、事を急ぐ必要は当面無いのだが、それでも考えてしまうものだ。病が癒えれば、また新たなストレスが生じる。それは仕方がない。このストレスと真正面からぶつかり合うのではなく、それを溜め込まないように調整しつつ、日々解放してゆき、なるべく穏やかな生活を送っていきたい。なぜなら安定的な読書と思索を継続的に行うには、心身の平静さが欠かせないからだ。古代ギリシア哲学でいうところのアタラクシアをぼくは日夜求めつつ、葛藤しながら暮らしている。世にごまんとある陳腐な望みの一つかもしれないが、自分にとってはそれなりに切実な願いなのである。

ココをご覧のみなさんも、アタラクシアをこいねがっているのだろうか?もしかすると、たぶん。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?