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お兄ちゃん、幸せな障害者になる

私には4歳年上の兄がいる。

最近、発達障害の一つ「自閉スペクトラム症」という診断を受けている。

子どもの時から療育に通っていて、その頃は障害者として認定されていたが、6歳くらいの時に当時の障害者の基準から外れた。

今でも知能検査を受けるとIQ80くらいが出るのだが、当時はだいたい70を下回ると障害者と認定される事が多かったようだ。

『この子は普通の子として生活してください』となった。

それ以降、いわゆる”普通の学校”に通った。


”普通の学校”で兄はどう生きたか


”普通の学校”に通い始めた。

小学校、中学校と同級生には執拗に虐められて、そういう子どもが好きな先生には好かれ、嫌いな先生には嫌われた。

兄が虐められるのは、兄が自分で嫌と言えないのが悪いからだと言われた。

そう言いたくなるのも理解できるが、言うたらいかん。

おかんが泣く。

中学校では、普段の生活状況を見た先生から行ける高校がないと言われた。

学校の勉強は個別のサポートがないので難しい。

それを理解した両親は、個別指導の塾を探してきて通わせた。

週に3回。

決して休む事なく、通い続けた。

そこではよく勉強をした。

そして、何より、素晴らしい先生に出会えた。

兄の力を心から信じ、学校の先生の”行ける高校がない”という発言に怒ってくれた。

そして、兄の第一志望の高校受験に向けて徹底的に個別の計画を練ってくれた。

兄は、マークシート式のテストにめっぽう強かった。
逆に、記述式は全くダメだった。

記憶力は人に比べて飛び抜けて良い。

例えば、一度見た地図は決して忘れない。

これも自閉スペクトラム症のひとつの特徴でもある。

だから、ひたすら淡々と簡単な問題を繰り返し経験しやって、あらゆる範囲の問題を記憶していった。

結局は、学区で一番優秀な高校に入学できた。

高校生になると、良い先生に巡り合って、楽しく過ごすようになった。

得意な科目では優秀なクラスで勉強もした。

なんと、大学生にもなった。

ここでも個別指導の塾の先生に助けてもらった。

近所の3流大学と言われた大学だったが、兄がここに行きたい、と選んだ大学だった。

他の大学も受験したが、他は全て落ちた。

なぜか、その第一志望の大学だけ合格した。

本人に聞くと、『あそこはマークシートしかないから。他は記述があるからダメ』だそうだ。

結構戦略的だな。

その大学に通いならが、週に3回アルバイトに行き、気ままに過ごすようになった。

アルバイトは母が見つけてきた。

人と会話しなくてもいい、淡々と荷物を並べる作業だった。

適応性抜群だった。

大学は1年留年した。

履修登録の方法が理解できなかった事、レポートを書くことができなかった事で、4回生になった時に単位が足りない事に気づいた。

家族みんなで、レポート作成の指導をして、履修登録の確認は教務の方にお願いした。

1年留年した学費は、兄がアルバイトで稼いだお金で支払っていた。


障害者の卒業後の生活


一通りの学校は卒業したが、就職はできなかった。

兄は、就職活動の方法が分からなかったし、障害の特性から、面接は難しかった。

そして、両親も私も就職はしなくても良いと考えていた。

両親も私も、兄が大学まで行っても、やはり多くの人が考える”普通”の社会生活をするためには手厚いサポートが必要な事を感じていたので、就職は困難だと考えた。

そこで、すでにうまくいっていた大学生の時のアルバイトを続けた。

途中で職種を変えたが、そこにも適応できた。

そこから20年弱、ずっと同じ仕事を続けている。

週5日程度、年中無休の業務にシフトで入る仕事なので、土日は関係ないし、お盆も正月も関係ない。

正月は毎年朝の5時に出勤している。

流石にそれは大変らしく、文句も言いながらだが、”働いている”という事は兄本人にとって、自己肯定感を保つために有効らしく、安定して続いてきた。

結構いい感じで暮らしてきた。

兄が20年そうやって淡々と同じ生活を続けるのに、私はその間に結婚して、離婚して、また結婚した。


幸せな障害者は損をする


穏やかに過ごしていた兄。

ところが、一昨年の外出自粛になってから、兄の様子が変わってきた。

それまで日課にしていたお散歩や、趣味の鉄道旅ができなくなった。

ひたすら家と仕事の往復と時々両親に連れて行ってもらうドライブだけが楽しみになった。

あとは、家の中で両親と3人で過ごす。

私は結婚して外に出ている。

両親は仕事は引退して、家で過ごしているから、四六時中兄の様子が気になる。

特に、それまで仕事でほとんど家におらず、初めて兄と長い時間を過ごす事になった父親は、兄の一挙一動が気になる。

父親にすれば、”注意すればできるようになる”という思いが未だにあるようで、箸の上げ下ろしのような、細かい事をいちいち指摘するようになった。

兄は散歩もできないし、電車にも乗れない、さらに家では小言を言われる。

ストレスだらけの生活になった。

徐々に心が蝕まれていったようで、それまで出ていなかった汚い言葉が、なんでもない瞬間に出るようになった。

これは、障害の症状の一つで”汚言”と言われるものである。

「しね」「ころす」といった言葉が、ちょっと気を抜いたタイミングで出る。

特に、ホッとした時に出やすい。

誰かに向かって言うのではなく、独り言で呟くだけ。

でも、それを周りに人がいるタイミングで無意識にやってしまった。

大問題になった。

20年続けた仕事も、「しね」「ころす」のたった一言でダメになるのか。

身内だからそう感じた。

でも、外側の気持ちになってみたら、そういう人が同じ職場にいたら一緒には働きたくない、それは当然の事だとわかった。

何か新たな行動が必要だと私と両親は悟った。

私も両親も、兄は40年前、子どもの頃は障害者の基準から外れたが、最近では兄のようにIQが70以上あっても障害者として認定される事は知っていた。

けれども、アルバイトであっても、毎日のように仕事に行き、余暇を楽しみ、生き生きと生活する兄を見ていたら、障害者として認定を受ける必要性を感じていなかった。

障害者として認定を受けるかどうか、それで何が変わるかというと、支援が受けられるかどうか、ここが大きな違いだと私は考えている。

ただ、IQ80超えの障害者の場合、支援がどうしても薄いのだ。

介護の世界でも、要支援〜要介護という段階があるように、障害者にも支援の段階がある。

生活にどの程度その障害が影響を与えているか、加えて家族の状態によって、段階は決まるわけだが、兄のように、アルバイトでも継続的に就労できており、両親も健在で同居している、となると、なかなか手厚い支援は受けられないのが現実だ。

日本は未だにやっぱり〝家族〟で揺り籠から墓場までなんとかしないといけないのだ。

例えば、北欧のように、障害者であるという認定を受ければ生活の全てにおいてサポートを受けられ、家族のサポートなく生活できる事が当然とされるわけではない。

家族が支援する事が前提で、そこにちょっとお手伝いしてもらえる、程度の支援しか受けられない事を知っていた。

ある意味、兄は幸せな障害者なのだ。

両親の庇護のもとで、経済的にも精神的にも追い込まれる事なく生活ができる。

それは、とても幸せな事なのだと思う。

けれども、幸せな障害者は幸せだから支援してもらえない。

それは当然の事のようで、どこかいつも釈然としないのは私だけだろうか。


幸せな障害者が陥りやすい落とし穴


ところが、現在両親が健在で穏やかに同居している幸せな障害者ほど、実は後々苦労する可能性がある。

我が家のように、外側に支援を求めないまま、いつの間にか両親が高齢化し、気づけば障害者の面倒を見られなくなってしまうのだ。

両親が障害者の面倒を見られなくなってから支援を受けようとしても、障害者本人はどうしたらいいか分からない。

両親も高齢化して、自分の手足で出来ることも限られているし、認知機能も低下する。

自治体の介入は?と思うが、虐待の話や生活保護の話を見ていても分かるように、自治体が介入するのはいろいろとハードルがある。

基本的には、各家庭、本人からの相談があってスムーズに支援に繋がっていく。

障害者のように本人自身がそうした判断を苦手にする場合、自分から発信して支援を求める事が難しく、そうなると自治体はとても動きにくい。

つまり、うちのように〝今は大丈夫だから〟、〝どうせ大した支援受けられないから〟と支援を求めずにいたら、存在さえ気づいてもらえない。

これはまずいぞ。

両親は年々高齢化している。

気づけば父は70を超えていた。

兄という存在は、我が家の者しか知らない。

このままいけば、兄は路頭に迷う。

私と両親はようやくここに辿り着いた。

兄が汚言という症状を出してくれて、ようやく私たちは重い腰を上げた。


兄、障害者になる


そこからは、早かった。

すぐに自治体の福祉課に行き、事情を伝えた。

障害者として支援を受けたいと伝えた。

そこで本物の障害者になる方法を教えてもらった。

語弊があるかもしれないが、我が家はずっと兄の事を障害者であると認識していたが、それはあくまで素人の自己診断でしかなかった。

障害者として認定されるには、医師の診断が必要になる。

そして、さらに支援を受けようと思えば、居住している都道府県の認定が必要になる。

本物の障害者になるには、結構色々な作業が必要なのだ。

私は、そういう作業が全然苦にならないから良かったが、兄本人がそれをやらなければいけないとなったら、大変な事になっていただろう。

まずは、成人の発達障害を診断できる病院を探した。

これは、自分たちでも出来たが、地域の障害者支援関連施設に意見も求めた。

そして、診察を予約した。初診まで4ヶ月待ちだった。

初診までの間に、生育歴をPCに打ち出して病院に送る必要があった。

初診は1時間ほどの面談があった。

その後、晴れて障害者として診断された。

けれどもまだまだ作業は終わらない。

次はそこで作成してもらった診断書を持って福祉課に障害者手帳の申請に行くわけだ。

福祉課の人も、成人してからの申請はおそらくそこまで申請が多いわけでもないので、なんとなく慣れていなかった。

みんなが慣れない雰囲気で申請は受領された。

そして、数ヶ月経ち、兄は精神障害者となった。


障害者になっても、兄は兄


精神障害者になった兄だが、特に何も変わらず生活している。

汚い言葉を発して仕事をクビになりそうになったが、今のところは契約続行している。

外出自粛制限が緩み、お散歩を再開。

電車旅は控えている。

けれども、父親にドライブであちこち連れて行ってもらっている。

両親も健在。

幸せそうに過ごしている。

兄が精神障害者になっても、何も変わらない。

障害者になるとは、その程度の事なのだ。

この先、支援を受ける機会が多くなると、障害者になった事に感謝する事は多くあるかもしれないが、障害者になるって、そういう事なのだ。

兄の障害の症状と付き合う事はもはや私たち家族にとって何の苦痛もない。

突然、キレたり暴れたり、家族以外の人がいる場では食事ができないとかは、苦痛でもなんでもない。

それよりも私たちが一番辛かったのは、兄が誰かに非難されて、迫害される事だった。

家族以外にとっては脅威以外の何者でもない、そういう存在であることは理解していたけれど、そうやって非難されて迫害されるのが辛くて仕方なかった。

けれども、私たちにとっては兄は兄なのだ。

そんな兄が兄らしく幸せに生きるためなら、何だってしようと思う。

こうやって、土曜の朝っぱらからシコシコ文章打ち込んでいるのも、兄のためだ。

兄のように、障害があっても手厚い支援を受け難い人たちのヒントになるように、そう思ってシコシコ打ち込んでいる。

兄が頑張って生きている足跡を残したくて打ち込んでいる。

くそ、やっぱり兄は幸せな障害者だな。

そんな兄を持って、私も幸せだ。





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