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トトロに学ぶ、子供を大事にする方法

娘が絶賛、「となりのトトロ」大ブームである。

なぜかわからないが、アニメ映画を観たことがなかったはずの段階からずっと、「おうち、トトロ、いた」と両親に報告し、毎晩小さいトトロが我が家に遊びに来て、ダイニングテーブルの下でビールを飲んでいた、という荒唐無稽な話を繰り返している。

おそらく保育園でトトロの存在を知り、まぁ幼児によくある妄想をしていたのだろうが、金曜ロードショーで映画を観てからは、文字通りトリコで、ほとんど毎日その世界に浸っている。

母である私も、この2か月は人生最高のペースで「となりのトトロ」を鑑賞している。

自分が幼児だった頃から、慣れ親しんだキャラクターとストーリーだが、娘を膝にのせて観るトトロには、まったく新しい感慨が湧いた。
今回はその気づきを書いてみたい。

トトロに会えるパスポート

ほとんどの方が周知であると思うが、一応書いておくと、この物語はサツキとめい、どちらも「5月」の名がついた姉妹が、「トトロ」と名乗る森のヌシ的生物と出会うひと夏を描いた、ファンタジー作品である。

スタジオジブリが誇る、まさに国民的アニメである本作の見どころは、病床に伏せる母にこがれつつも、新しい土地で前向きに暮らす幼い姉妹の健気さと、三体のトトロとネコバスなどの、ユーモラスな世界観だ。

トトロが妖精なのか怪獣なのかは明言されないが、主題歌のサビで強調されているように、トトロに会えるのは子供だけだ。
「子供のときにだけ、あなたにおとずれる不思議な出会い」なのだ。

私はここに引っかかる。

4歳だという、妹のめいはわかる。
まだろれつが未完成な発音も、パンツを丸出しにして遊ぶサマも、姉の後ろをちょこまかくっついて歩く仕草も、めいは年少か年中にしては、少し過剰ではないかと思うほどに「幼さ」が前面に描写されている。

これと対照的なのが、姉のサツキだ。
12歳の6年生であるサツキは、非常に賢くしっかり者である。

父親が寝坊することを想定して、家族3人分の朝ごはんとお弁当を、慣れない台所で作ってしまうし、ピーピーうるさい妹のワガママを許容し、教室に招き入れる優しさも持っていて、なんなら初見のツメのするどい巨大生物に、傘を差しだす慈愛すらある。

母役と妻役を一身に引き受け、家族を支えているサツキは、年齢的にも思春期の入り口がみえており、同級生であるカンタとの比較でも、格段に「大人びている少女」として描かれている。

トトロに会える「子供の頃」は、せいぜい8歳くらいまでな気がするし、サツキくらいの少女には、トトロはもう視えないんじゃないだろうか。

近所のばっちゃんや父親ですら、サツキのことをほとんど「大人」として扱っているし、めいだけがトトロに出会い、サツキがめいの話を微笑ましく聞きながら、「そうか、めいはトトロに会ったのね。」と優しく頭をなでるようなシーンこそ、2人の人物描写を考慮すると、しっくりくるような気がしている。

トトロはどうして現れたのか

「サツキ、トトロに会うには成長しすぎ説」を考えたときに、いくつかのシーンが思い出される。

まずはトトロとの出会い。
幼児のめいがトトロの巣に迷い込むのに対して、サツキの元には、トトロじきじきに会いに来る

どうせ会うなら2人同時にトトロを視たら話がはやいのに、あえて二度手間なストーリーになっているのは、特別な意味があるはずだ。

雨が降り出し、父親が傘をもっていないからバス停まで迎えにいくという、スーパーな良妻ぶりを発揮するサツキは、絶対に眠くなってお荷物になるであろう妹を、本人の意思を尊重して連れていく。

そして自分はあやとりで時間をつぶしながら、案の定目がしばしばしてきためいを、叱ることもなく、傘を差しつつおぶるという、信じられない母性もみせる。

姿を現したトトロにも、あれこれ話し掛けずにそっと横に立ち、ぬれて可哀相だと傘を差しだす。

「こうやって使うのよ。」と声をかけるサツキは、数百年は生きているであろうトトロに対しても、「お母さん」の顔をする。

冒頭からここまで、こんな落ち着いた小学生いないって…、と思わせる描写が、細かく細かく差し込まれている。

母に宛てて書く手紙にも、妹の様子を伝える文章ばかりで、自分の学校の話や、家事の苦労は語らない。

そんな物語が動くのは、庭に埋めた木の実を、トトロが大木にしにくる日。
空を見上げる姉妹に、コマで飛ぼうとトトロが誘う、あのシーン。

私はあそこで確信する。
そうか、トトロは、めいではなくて、サツキのために、わざわざやってきたんだな、と。

子供にもどれる、おまじない

トトロがコマに乗ると、さそってもないのに、当然のようにめいも飛びつく。
そしてトトロはサツキをジッと見下ろしている。
「さぁ、きみはどうする?」とでも問いたげだ。

すると、ここまで徹底して母性強く描かれていたサツキの目が、子供のようにキラッと輝き、まるで母親に甘える幼児のような、安心しきった顔でトトロのお腹にしがみつく。

それまではめいの目線から見上げるカットが多かったサツキだが、飛びつく前は、トトロの目の高さから見下ろしているカットなので、幼さを感じる表情が可愛い。

私はこのシーンが一番好きだ。

「風立ちぬ」や「紅の豚」に代表されるように、宮崎駿にとって、「飛行機」は非常に特別な乗り物だ。

ナウシカでも魔女の宅急便でもラピュタでも、大型の飛行船は、いつも物語のキーをもつ。
きっと巨匠の創作意欲の根底にある「憧れ」そのものなのだと思う。

しかしトトロでは、小さなコマにのって、あたかもトトロそのものが飛んでいるかのような絵コンテになっている。

これは、温かな身体に密着し、童心を取り戻すサツキを360度描き切るためではないのか。

この出来事をきっかけに、サツキはめいに怒鳴ったり、ふて寝して家事をおろそかにしたり、母を思って大声で泣いたり、「子供らしさ」を取り戻していく。

母の病気
幼い妹
家事に疎いマイペースな父
引っ越したばかりの田舎生活

そういった環境が、サツキから取り上げた「子供でいる権利」こそが、あのバス停でトトロが渡した、笹の葉で作った袋につまっていたのかもしれない。

子供の権利と大人の罪

ラストシーンは、迷子になってしまっためいを探して、村中が大騒動になる。
ここでも、池で見つかったサンダルを確認したり、病院への道を率先して探す役は、父の不在によりサツキが担う。

自分とケンカしたせいで、妹がいなくなってしまった。
まだ4歳のめいは、きっとどこかで泣いている。

そんな心労を背負いながら、靴がつぶれるまで走り続けるサツキ。

どこに行ったと思う?このサンダルは本人のか?
妹の命に関わる、ヘビーすぎる質問を、周囲はさらっとサツキに尋ねる。

今までならば、自分がしっかりしなくては、と、周囲の大人に頭を下げながら、気丈な捜索を続けたであろうサツキは、トトロという拠りどころがあるおかげで、「どうすればいいかわからない、お願い、助けて」と顔をゆがめる。

サツキだって、まだまだ子供だ。
4歳児の命など、背負えるわけはないのだ。
大人たちが忘れてしまったこの事実を、トトロはすんなり抱きしめる。

子供には、権利がある。
大人の都合など、知らずに無邪気にすごしていいという、無限の許しだ。

欲しいものがあれば、しつこくねだってギャーギャーわめいたらいいし、
くだらないことでヘソを曲げて意地を張っても、好物だけを食べ続けたいと願ってもいい。雲のカタチに笑い転げてもいいし、意味なく親に甘えてもいい。

いいのだ。まったくいい。むしろ、そうでなくてはいけない。

聞き分けよく振舞うことは、成熟してからいつでもできる。

そして、大人が「子供だったこと」を忘れてしまい、子供時代だけの素敵な幸福を、子供から取り上げてしまうことは、深くて重い罪なのだ。

子供だった時間は、二度と戻らない。

毎日「大人」としてすごしている我々は、そのことを誰よりも知っているはずなのに、自分の都合よく振舞う子供を、「しっかりしている」「頼りになる」と持ち上げすぎて、気づかず無理をさせてしまう。

子供は大人に褒められたいし、役に立ちたいと思っている。
それを声に出して感謝するのはイイコトだが、「聞き分けがいいことこそが、君の価値」と子供に感じさせた途端、その子の子供時代は終わってしまう。

責任や管理は大人がちゃんと担い、どんなにしっかりした子でも、いつでも「子供らしさ」に引き返せる逃げ道を、きちんと残しておいてあげることも、その子を大事にすることなのだ。

サツキのように、トトロが会いにきてくれるとは限らない。

大切な我が子の「子供らしくいる権利」は、親がしっかり確保しておきたいものである。

記:瀧波 わか


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