この時間は"オモチャ箱"なのかもしれない
noteで記事を書きだして5か月。
この度、ご縁があり、cakesにて育児コラムの連載を持たせていただくことになりました。
去年までは執筆経験ゼロの障害支援畑の人で、SNSのアカウントすら持っていなかった。
そんな情弱ちゃんな私に、この機会をくださった多くの方がいます。
コノビーへの社内異動を示唆した上司や、慣れない業務を支えてくれた人、声をかけてくれたcakesの方、そして、拙い文やツイートに、いいねやスキを押し続け、私の発信を読み続けてくれた、あなたです。
あなたの指が囁いた、「共感した~」や「おもしろい!」に背中を押され、もう1記事書いてみようかな、を続けていくうちに、今日につながっていたようです。
本当に、ありがとうございます。
また読んでみよっかな、と思われるような連載になるように励みます。
今回は、そんな感謝と、連載名に込めた想いを、書かせてください。
記事に込める"願い"はなに
「出産・子育て」をテーマに、コラムとエッセイの連載はどうですか、とご提案くださったcakesの編集さん。
プレパパである彼が提案してくれた初期連載案は、「現代育児の問題を構造化!」みたいな路線だった。
へぇ~面白いな~と感じた。
初期案はすでに公開したnoteのイメージを反映しているはずなので、編集さんに私の記事は「そう見えている」ということだ。
私は自分の記事を、どちらかと言うとエモめだと思っていたので、そうか、理屈っぽいというか、問題のあぶり出し論文みたいに捉える人もいるのだな、と発見をもらった。
確かに、「現象の構造化」と「感情の言語化」は、私の好きな手法ではある。そういう切り口の記事が多い。
ただ、それはあくまで「手段」であって、「目的」は別のところにある。
なんで書くのか、なんで構造化して言語化するのか。
根底にあるのは「子育てがもっと豊かになってほしい」という想いだ。
もっと楽しくでも、もっと快適にでもなく。
育児にはめんどくさいことやツライこと、ままならないこともある。
その比率をパワーマネジメントして、無理くり楽しまなきゃいけない!みたいな働きかけは、ちょっと強引かも、と感じている。
泣いたり自暴自棄になったり、そんな自分を嫌悪しても、私はいいと思う。
ただ、その「ありのまま」を捕まえて、間違ってる!ダメな親!もっとこうしろ!じゃなく、「そういうとき、あるよね、あるよ。」と多くの人が受容してくれたら、それは豊かなことかもしれない。
子育てでも障害支援でも、そこで発生する困難は、「当事者たちの問題」と定義されがちだけど、実はそうじゃない。
育児のツラさの大部分や、障害者の生きづらさは、本人が持っているというより、社会環境や人々の無関心・無理解の中にある。
そういう意味で、私は「当事者でない人などいない」と考えている。
現在、私に障害の診断はないが、職場で街で電車の中で、どこかで「その人」に関わるとき、私は「障害にかかわる当事者」なのだ。
育児もまったく同様。
子供がいなくても、子育て問題になんらかの形でかかわるとき、誰もがその問題の当事者だ。
なので、当事者ど真ん中の方にとって納得感が強く、なおかつ広い意味での当事者を増やすことが、私の記事のミッションで、それには、単純に読み物として面白くなくてはいけないというハードルが存在する。
力不足なので、まだ多くはないが、「未婚だけどなるほどって思った」や「はじめて療育の存在を知った」という感想が、めちゃくちゃ嬉しい。
目下修業中だが、そんな願いを込めている。
私の中の「育児」のイメージ
この素敵で最高な連載バナーは、イラストレーターのタキノユキさんに依頼した。
彼女の繊細で優しく、そしてまろやかなタッチが好きであったし、実は彼女、コノビーが主催した、新米ママ向けイベントの参加者であった。
作風と同じように、彼女自身も、おだやかな笑顔と彩り豊かな感性をもつ、とても魅力的な女性だ。
ひとつのご縁がこうしてカタチになったことに、感無量である。
連載名の「育児はまぶしい、オモチャ箱」は私の発案だ。
子供がいる生活は、とても賑やかで、カラフルで、ごちゃごちゃで、幸せで、クタクタになる。
1つ1つの出来事や思い出やかわいさは、買ってもらったオモチャみたいに、大好きで特別で、いつまでも大事にすると、固く誓う。
だけど、箱の大きさは決まっているから、あんまりたくさんは所持できなくて、溢れてしまったり失くしたり。
しかも大きさも素材も、まるで統一感のないオモチャたちは、何回やっても、キレイに収納しきることなんか、できなくて。
全部大事なはずなのに、床に落ちたオモチャをみては、ハァ~とタメ息をついて落胆したり、今日は片付けめんどいや、とほったらかしにしてみたり。
ひとたび踏むと、すごく痛くてカッチーン!となる。
でもやっぱり大好きでまぶしくて、ごちゃごちゃでも輝いてて。
その光に目を細める。子供時代だけの、黄色い輝きを、逃したくないのに、直視できないこともある。
いつでも光っているからこそ、すべての瞬間をまるっと抱きしめられない親の心に、影がさす。
そんな、なんとしてでも大事にしたい、かけがえのない、たった一つの「オモチャ箱」。それが、子供を育てる時間なのかもしれない…。
深夜手前にやっと寝た娘に疲れながら、リビングに散らばるオモチャを集めているとき、このタイトルを思いついた。
2歳の娘のオモチャ箱には、音が鳴るもの、ぬいぐるみ、ままごとにカード…新しいオモチャも古いオモチャもごちゃ混ぜで、まとまりがない。
でもきっと、オモチャはどんどん入れ替わっていくし、これだけ数があったら、何回片付けても「いまとまったく同じ景色」にはならないんだろう。
眠る娘は、確実に成長していて、今日の昼と同じ笑顔は、もうみることが、できないように。
いつか言葉の言い間違いがなくなり、走る背中に追いつけなくなり、文字が書けるようになり、親より友人の手をとり、オモチャ箱は、必要なくなる。
いま目の前に溢れて転がるオモチャたちは、どれ1つ、5年後の娘をワクワクさせることができないだろう。
そう思うと、こみあげるものがあった。
もう全然遊ばなくなった、ラッパのオモチャを抱きしめる。
買った当時は握るのがやっとで、それなのに写真をたくさん撮った。
はじめて音が鳴らせた日は、手をたたいて、あんなに大喜びしていたのに…。
「できること」が増えることは「いつできるかと楽しみにしていること」が減ることだ。
オモチャたちは、その順番を待っている。光輝く、箱の中で。
イラストのオモチャ箱は、親のキャパを表している。
私の連載なので、私の好きな、赤色だ。
箱の中の雑多なオモチャは、きれいにしまいたいのに整理が追い付かない、大事な思い出や子供への愛しさ。
箱からこぼれているオモチャは、つい忙しくて余裕がなくて、取りこぼして忘れてしまう成長たち。
影が差しているのは、育児がまぶしい故の、親がふと感じる罪悪感や無力感だ。
そしてそんな毎日は、大変でもやはり大切で、ごちゃごちゃなままのオモチャ箱に、リボンをかけようとする親の手。
うまく結べないが、いつでもその手には、特別な色のリボンが握られている…。
弾丸スケジュールだったのに、リクエスト通りにイラストをあげてくれたタキノさんは、ほんとにすごかった。
この絵に相応しい文章が書けるように励みつつ、私の赤いオモチャ箱に、ふんわりリボンをかけていたい。
この日々が、なんとまぶしかったことでしょうと、いつかの私が、優しく涙を流せるように。
記:瀧波 和賀
いい夫婦の日(11月22日)より、cakesにて育児コラムの連載が開始。
産後も仲良し夫婦でいるには? 家族を救う「リモート育児」
次回は11月30日(金)10時更新!
是非ごらんください!
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