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(46) あるがまま

目が合わない。
悲しいことであるのだが、その理由が痛いほどよく分かるから”共感的視線”でお返しする。”空(くう)”に向けられたその視線は力がなく、次から次へ視点が変わる。無言のままなのだ。私はそれを見極めると、配慮から彼の目を外し、口元に視線を移すことを心掛けている。

「これが僕の前期の成績です」
「えぇ、そんな大切な個人情報を私が見ていいのですか?」
「見て欲しいのです。でないと僕の苦しさを分かって貰えないからです」
「わかった。拝見するよ?」
「はい、お願いします」

礼儀正しく丁寧なのだ。(どこかしらエネルギーが不足している)想像通り。見たこともない優秀な成績である。11講座中ひとつのB+を除いて、すべてA判定である。

「凄いね」
「どうも。幼い頃から、母には認められたことが一度もありませんでした。かと言って責められたこともないのです。当然ですが、褒められたことも全然ありませんでした」
「それは辛いし元気が出ないね」
「はい、僕にとっては辛いどころではなく・・・居ても居なくてもどうでもいい存在なんだろうな・・・と強く思いました」
「今の君のままではいけない、と言われているように思ったんだね」
「はい、その通りです。責められた方がまだ楽だったのかも知れません。母は僕を強く否定していたんだと思います」
「それは、可能性はあるかも知れないけど、決めつけ過ぎていると思うけど?」
「はい、そう考えないように努力もしてみました。けど、やはりあの母の顔を見る限り目も表情からも否定している”空気”なんです」
「これでもか!これでもか!と、褒めて貰いたくて努力したその結果があの成績という訳なんだね」
「僕は、僕を母に認めさせるには、数字だけでわかる成績以外に考えがつかなかったものですから・・・。悲しいけどこんな事しか出来なくて・・・。この成績を見せても母は表情ひとつ変わらなくて、何の言葉もありませんでした。他人である先生から、凄いねと言葉を頂いたのに・・・悲しいです」
「そうだね。君が褒められたくてコールした事に対するレスポンスがそれだと、誰でも悲しいし辛いしやり切れないね。子供にとってお母さんはただただ大切な存在だもんね」
「誰とも視線を合わせられないんです」
「そうですか、よく分かるよ。今の状況なら当然のことで気にすることはありません。それで、そのままで大丈夫ですよ」
「勉強以外、何ひとつ思うように生きられないんです。勉強なんて出来たところで何の意味もないこと分かっているんですけど・・・。友人はひとりもいません。当然彼女もいません。アルバイトに行けなくて、ただ学校に通っているだけです。これって”病気”ですよね?きっと卒業しても、働けないと思います」

私は慣れているとは言え、涙だけは弱いのだ。彼は途中からずっと泣き声なのだ。”病”なんかではない。

散々に”現実の自分(自我)”を否定され、今のままではダメだと返されたのでは、”僕はこれで大丈夫だ”という全能感を持てないのだ。結果、自らも自身のことを認められないままとなる。そんな状況の中、苦肉の策から、認められることのない”現実の自分(自我)”ではダメだからと、”幻想の自分(自我)”を設定し、ありもしない自分を作り上げ、それを信じ込む生き方(非常に誇大な自己イメージを作り上げてしまう)となると、それは”病”という領域となるのだろう。

彼は決して”病”の領域にはいない。
何故なら、”幻想の自分(自我)””現実の自分(自我)”とに致命的になるほどの”分裂”がないからだ。彼は否定された”現実我”をエネルギー源にして、”幻想我”などではない、むしろ”理想我”を持ちそれに近づける努力が出来ていることがとても健康的であると思うのだ。ただただ”自信”を持たせて貰えていないのだ。(受け身で言うなら、であるが)”自信”を持てるかどうかは、”自分自身の役割”であることを忘れないで欲しいと強く思う。

小学六年生のクライアントがいる。
サッカーボールを抱えて、ユニフォームを着て土曜日にやって来る。この後、サッカーの練習に参加するらしいのだ。
「俺なんかさ、オカンがうるせぇこと言ったら、何だバカヤロ~!って言うよ。オカンなんかさ、お前は発達障がいなんだから、みんなから変な子って言われないようにって、そればっかり言って・・・。俺って大丈夫だよね先生!」
「おぉ、大丈夫だ!発達障がいってさ、個性だ個性!だからなんにも心配しなくていいよ。ただ、”自分はダメだ”とか、”自信”を失くさないように堂々とな!だからといって威張らなくていいぞ」
「O.K.!まぁサッカーやってるし、友達たくさんいるし、俺人気者だからいいよ」

将来は横浜F.マリノスに入団するのだという。相当サッカーは上手いらしい。口癖は「俺って、俺が好きだよ。サッカー上手いし、妹は可愛がるいい子だし、オカン好きだし、まぁ言うことねぇよ」乱暴なクソ坊主だ。面接中、机越しにサッカーボールを投げてくる。私はそれをヘディングで返す。
私もサッカーは出来るのだ。私は彼が大好きである。何故かは、彼が彼自身を”好き”であり、自分を認めて”自信”を持っているからだ。何よりのことだ。

どんな環境で育つか、私たちは選べないのだ。両親も選べない。与えられた中で育つしかないのだ。これは決してハンディキャップなのではない。受け身ではなく、私は”こう生きる””こんな自分になる”さえイメージが作れるなら、どんな場で、どう育てられようが大丈夫なのだ。”バネ”にして跳ね上がれ!みんな”あるがまま”を受け入れて跳ね上がれ!

追記
文中、私が担当したケースが書かれている。当然私たちの仕事は守秘義務があり、クライアントを守らねばならない。今まで・今回・これからも、ご本人から承諾を得たもののみ書かせて頂く。


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