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(96) 奈津子 ー そばにいて

いつもそうだった。
”明日十九時 吉祥寺Mで 達郎”
電話が嫌いだという達郎は、一行だけのFAXを打つのが癖だった。もし、都合が悪かったりしたら、どう返事をしたらいいのか、と、いつも奈津子はそう思った。それに十九時という時間、吉祥寺という待ち合わせの場所、JAZZ喫茶のMなど、学生から抜け出せていない達郎の匂いがした。

奈津子にとって、JAZZもMもほとんど二年ぶりである。通いなれた店ではあったが、照明の暗さが気になった。
「奈っちゃん、すまん。あんまり好きじゃなかったよね、この店・・・」
達郎は曲を聴き入っている客を気遣いながら、小声でそう言った。
「いいのよ、久しぶりだし、無口な達郎君と会うには似合ってるじゃないの」
奈津子も達郎に合わせて小声でそう答えた。JAZZ喫茶のほとんどがそうであるように、Mもスピーカーに向けて客席が並べてあり、映画館のように横並びに二人は座った。達郎は、テーブルの上に小さめのスケッチブックと2Bの鉛筆を出して、昔よくした筆談の用意をした。

(このMを選ぶのは実は理由があって、向き合って座らなくても良くて・・・僕にとってはとても気が楽で・・・また。他の客たちの視線も気にならないし、少し暗いのも僕にはありがたいことだ。スムーズに言葉にして君に告げなくても、考えてこうしてゆっくりと書けばいいのも僕にとっては楽だ。どうもこれ以外の会い方が苦手です。)

達郎は考えながら、スケッチブックにそう書いた。奈津子は達筆な達郎の文字を、懐かしい思いで眺めた。

(そうね、私もあなたを真似てゆっくりと考えて書こうと思うわ。壁に希少なアナログ盤のジャケットが飾られているわね・・・。このうちの何枚かはあなたも持っているのかしら。お昼食べなくても、レコード買ってたもんね。あなたは誤解してると思うけど、私はJAZZ嫌いじゃないよ。好きだ言った方が近いかな。ただ、聴くと・・・何て言えばいいの、寂寥感っていうの、胸のあたりが締め付けられる気がするの・・・。だからといって不快じゃないの・・・。それって、昔、何故だかあなたに伝えてなかったわよね。もう一つ黙っていたことがあって、BLUE NOTEを聴いたのがJAZZへ入る始めだったってあなたから聞いて、私、何枚かBLUE NOTEのCD買ったの。もちろん聴いたわ、何度も何度も・・・。少しはあなたのこと知りたいと思って・・・。あなたがJAZZ好きなのわかる気がするわ。電話が嫌いだって、電話も設けないでどこからFAX打つの?みんなはあなたにどんな手段で連絡するの?そこが不思議よ。私は、どう連絡すればいいのかしら。今日もこの間と一緒で・・・ふと、人恋しくなって連絡くれたのかしら。それとも他の理由?)

奈津子は、まるで交換日記に夢中になっている女子高生のような表情で、時々天井を見上げて、何かを思い出し、スケッチブックに向かって鉛筆を夢中で走らせた。書き終えると、奈津子は目を閉じて曲に聴き入っている達郎に合図をし、今度は達郎を真似て目を閉じてみた。六十センチはあるだろうウーファーからドンドンと低音が腹に響いた。シャッシャッとハイハットがリズムを刻む。少しは奈津子にもJAZZはわかった。達郎はスケッチブックを照明の方へかざし、奈津子の文章の一文字一文字丁寧に目を通した。腕を組むと、目を閉じてどう書こうか達郎は迷った。どういえばいいのかわからなかった。小学生が作文用紙を広げて、左手で何回もその用紙の下から上へ撫ぜ、どう書こうか考えるように、達郎はそんな動作を何度も繰り返した。

(どうして連絡したのか、と聞かれても、無責任だけど・・・僕にもわからない。僕が電話を設けてあることを言えば、もっと君からも連絡を貰えるかも知れない。理由もないのに不自然なFAXを送らなくても済むかも知れないと思う。僕は電話が嫌いだということになっている。本当のこと言うと、FAXつきの電話を僕は持っている。もう随分前から、君へのFAXも僕の電話から送っている。ただ、一度も受話器を上げたことはないんだ。誰かから電話が入る、受話器を取る、相手の声が聞こえる・・・誰だかわかる・・・こんな時、僕の感情が声になって出て行く、これが怖いんだ。変だと思うかも知れないけど、例えば面倒そうな声しか出せなかった時、その感情は必ず相手に届くだろ。受け取った本人はどう思うだろうと思うと、結局感情を込めない声しか出せなくなる・・・。逆に、待っていた人から電話が入る。嬉しくて安心して、会いたくて、声の調子がコントロール出来なくなる、声の結果に責任が持てない・・・これも僕には怖いんだ。わがままなようだけど、気持ちが声に乗っっかって出てしまい、それを受けた相手の反応を受け止めるだけの余裕が僕にはないんだ。やっぱり、上手く言えない。君に何故連絡をしたのか、だったね。困る。本当に理由がないんだ。その時の僕の気持ちを的確に表す言葉が見当たらない・・・。

つい先日、奥多摩で【多摩黒】と呼ばれる陶器を完成させた陶芸家の文章を読んだ。その鈴木さんという人が、
「人間は孤独でないといい仕事は出来ない」
と言う。また、奥多摩の深い谷合いに住んでいて、そこの闇が気に入って、放浪の末に落ち着いたと言う。闇には色も匂いもあるんだと・・・。そして、その闇の輝きを陶器に焼き付けたのが【多摩黒】だと言う・・・。漠然と、僕も今まで鈴木さんと同じ様なこと考えていたんだと思っていた。初めて同じようなこと考えている人に出会えたと思った。本当なら嬉しいはずなんだろうに、何故かやり切れないんだ。そんな時、ふと君にFAXを打っていた。)

達郎は、書き終えると、何度も読み返した。納得が出来ないのだろう、何度か首をかしげ、所々線で文字を消し、書き加えたりした。

(あなたの気持ち、よくわかるわ・・・。そうよね、人に会うのに理由なんていらないし、言葉に置き換えることが難しいことってあるよね。無理なこと聞いて、ごめんね。受話器を一度も取ってないっていうの、あなたらしいわ。わたしね、あなたからのFAX・・・実は全部壁にはってあるの・・・。そのFAX読んだ時の私の気持ちを黙ってたけど正直に書いたわ。私ね、ずっと考えてたの・・・今度あなたに会ったら絶対に言おうって・・・その言葉探していたの、長いこと・・・でも見つからなかったのね・・・今日、あなたと筆談してて、やっと見つかったわ・・・。達郎、そばにいて・・・ずっと。)

読んで欲しい、でも読まれるのは恥ずかしいとアンビバレントな感情からか、無駄だと知りながら、奈津子はスケッチブックを閉じたまま達郎にそっと差し出した。

(君に余計な心配をかけてしまった。君に無理矢理言わせてしまった。取り消してくれていいんだよ。やっぱり僕は卑怯者かも知れない。さっさと僕の方から言わなければいけなかったんだ。奈津子、僕が一番伝えたかった言葉は、ずっとそれだったんだ。そばにいて・・・これが僕のすべてです。)

達郎はスケッチブックを開けたまま、テーブルの上のスポットの当たった場所へそっと置いた。割れてしまったかのような高音のトランペットが響いた。ズドンズドンとバスドラが店内の空気を揺らした。奈津子は、不思議と胸の苦しくないJAZZが聴けている実感を、目を閉じながら味わっていた。


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