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(31) タイミング

昔、いや大昔になるが玉子とバナナは高価で庶民にはなかなか手が出なかった。病気になった時か遠足の時ぐらいにしか食べられなかった。だから子供にとっては一番のご馳走だった。我が家では、遠足の時に必ずゆで玉子とバナナを持たせてもらえた。行き先が公園だろうが名所旧跡であろうがそんなことどうでも良かった。

小学校の低学年の時だったと記憶している。遠足で行った先の公園でどのように遊んだか、など覚えていない。弁当の時間、待ちかねたゆで玉子を食べられる時が来た。子供ながらに最初に食べるか、最後まで楽しみに取っておくかで大いに悩んだ。

悩んだ末、一番美味しいものを最後にしようと決心して先に弁当を食べた。全てを食べ終え、さてゆで玉子だ!慎重に殻をむき、白身と黄身を分けようと玉子を割った。手が小さかったからか、そのタイミングで黄身が飛んで地面に落ちた・・・。

一番最初に食べれば良かったと、大いに後悔した。残念で仕方なくて、一日が台無しに思えた。「タイミングを間違えた」と後悔した。何故か強烈な印象として今も悔しさが残っている。それ程玉子は貴重であり、楽しみだったのだ。

先頃からラーメンが大流行だ。トッピングが何であるか楽しみだ。チャーシューは当然必須項目だが、ナルトなどは要らない。焼き海苔、味付玉子が追加されると嬉しい。出来たらスープは澄み切った塩か醤油にしてもらいたい。濁ったスープは苦手だ。さて、チャーシューと焼き海苔、味付玉子をどのタイミングで食べるかで大いに悩む。子供の頃大きな失敗をしているから、早めに食べてしまうか、麺をまず味わってからにするか、スープから行くのか・・・と、真剣に悩むことにしている。しかしそんなものは、何からどの順番で食べるかなど大した問題ではないのだ。何から食べようが、自分の”好き”で良いのだ。真剣に悩む場面ではない。仲間とラーメンを食べに来ている若者たちと出会うことがある。必ずその中に、トッピングをどのタイミングで食べるか、と、うんちくを垂れている一人がいる。だいたいメガネを掛けているのが相場だ。湯気でメガネが曇るのか、外して熱っぽく語るのだ。人がそうしていると、「どれから食ってもそう大差はねぇだろう。どうでも良いじゃねぇか」と言いたくなる。

しかし、自分一人の時はどうでも良いことにかなりこだわる。命に関わるわけでもないし、確かにどちらでも大差はない。そんなこと好きにしたら良いのだ。たかだかラーメンのトッピングだ。そんなことにこだわっているのを見ると、”平和だなぁ”と思う。どんどんこだわれ!悩め!結構なことである。

しかし、いい加減に出来ない瞬間というものがある。この”タイミンミング”を疎かにすると背負わねばならない荷を負うことになる。何か事に出会う・初めての人に出会う、そんな時、人は感情を瞬時に充てる。その結果、”厄介なことになった”とか、 ”この人苦手だな””これは何という悲劇だ””この人は用心すべき人だ。危険な奴だ!”などという瞬間のことだ。

何故、この”タイミング”をいい加減に出来ないのか、してはいけないのか。
それは出会った瞬間のことであり、考える暇がない判断であるからだ。その判断は十分考えていないものだから、先入観(思い込み)・過去の記憶の中の強い印象を優先させ持ち込んでいるはずだから、客観性や冷静さに大いに欠けるのである。確かに第一印象が後から正しかったという経験は誰にもあるし、割と多くある。しかし、同時に大いに外れたこともあったはずだ。記憶の印象というのは、インパクトの強いものが優先して情報として先に記憶されるものだから、”第一印象が当たった”ははるかに、”外れた”よりインパクトは強いのだ。すると、”第一印象は大切だ”と強く記憶に残り、何の疑問を抱くことなく”瞬時の判断を信じ込む”ことになる。

”考える暇がないままの判断”を果たして採用して良いのか?それが安易な判断とならないか?後にそれが大きな問題に発展しないか?私は大いに危惧するのだ。

私の友人にSさんがいる。彼は不思議君で、いつもゆったりでぼんやりしている。会話もツーカーでは行かない。少々手こずるのだ。”答え””感情”が出て来るまで長い長い時間がかかるのだ。一緒に行動するとみんなが彼に合わせなければ始まらないことになる。集まりに声を掛けてもいないのに、何故か彼はいつもいるのだ。私はその彼が羨ましい。だからいつも彼に関心を寄せている。それは、私にないものを彼は持っているからだ。”ゆっくり””ぼんやり”がそれだ。それだから、私のようにいい加減に判断し瞬間に感情を充てないのだ。羨ましい。その代わり、事はうんと遅い。ゆっくり、ぼんやりしながら考えて、人よりずっと遅く判断せざるを得ないが、考えて考えて答えや反応が返って来る。忘れた頃、というのもある。いつも私はそれを楽しみに待つことにしている。人生は思ったより長いのだ。何も慌てることはない。「それって良いなぁ、こんな風にぼんやり生きたいな」と、思うのである。

人はよく考えることなく、印象の強い何か、瞬間のインパクトの強い要素や思い込みに影響されて、現実とはかなりかけ離れた判断をしてしまうことしきりだ。”何か事に出会う・初めての人に出会う”そんな時、感情を瞬時に充ててしまうその”タイミング”に、自身の思い込みや強い印象に邪魔されることなく十分に判断して欲しいと思うのだ。少し”間”を取る。この事で、大いに日々がまるで違ってくるのだ。

追憶
あの地面に落としてしまった黄身は、しばらく考えた末、もちろん拾って食べた。


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