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(44) ヤマアラシのジレンマ

人との距離は難しい。

つい先日、隣県の福祉課の課長さんとお会いしなければならないことになった。ご挨拶で、苦手な名刺交換となり、例によって私は名刺をお渡ししないのだが、課長さんからは頂いた。お辞儀の際、二人とも緊張のあまり近づき過ぎていたのか、頭と頭が強くぶつかった。(ゴ~ンと音が出た)私はいつもニット帽をかぶっているので、さほど痛くはなかったが、課長さんは目をショボショボされ、頭に手をあてられるほどの痛い様子だった。(課長さんは頭髪がかなり薄かったのだ)

二人で目を合わせ、思わず吹き出した。そんなこともあってか、苦手な偉い方との面会もさほど苦にならず、仕事の依頼をお受けした。帰りがけは、先程の教訓からか、二人とも十分すぎる距離を取ってお辞儀のご挨拶をして終わった。”カウンセリング面接”以外の時は、まるっきり力を抜いてポヨンポヨンの生活をしているから、こんなことになる。

距離の取り方は、本当に難しい。ご挨拶で頭をぶつけようが、こんなことはご愛敬でどうでもいいことだ。ぶつかったっていいのだ。問題なのは、”人と人との心理的距離”である。近くなればなるほど、お互いを傷つけ合うかも知れないという人間関係のジレンマがつきまとうものだ。人と親しくなる為には、「近づく」ことが絶対に必要になる。しかし、「近づき過ぎる」と極度の緊張感に苛まれ、不安や怖さを味わうことになる。

人は本当に多様であり、上部からではほとんど何もわからない。それぞれに個性があり、様々な価値観を持って色々なのだ。そんな個性揃いの人たちが集まってコミュニティーを作っているのだ。いざ、その中に入って行こうとすると、”この私”がその中で通用するのか、受け入れられるのか、と、不安になる。その人たちから加害されるのではないか、と、不安になり怖い思いをしたりする。「ひとりでいた方が気楽でいい」と思いながらも、ひとりは孤独で寂しい。これもまた、辛い。

そんな葛藤がつきまとう。”ヤマアラシのジレンマ”と呼ばれている。ヤマアラシという動物も家族や仲間の中で生きている。お互い鋭い針を身につけている。それは、襲って来る外敵から身を守る為のものなのだ。それを持っていることで、野生の一員として無事に命を守っている。しかし、寄り添い合う時、その針が仲間を傷つけるかもしれない危険もあり、同時に自分も仲間の針で傷つくかも知れないのだ。”両刃の剣”ということだ。そんなヤマアラシから学べないだろうか?と、私はいつも愚考の日々だ。

私たちに”ヤマアラシのジレンマ”を引用するとしたら、ヤマアラシの針とはいったい私たちの何に相当するのか?ヤマアラシは仲間と向き合う時、針をどうしているのか?ここに”解答”への道がある。

さて、ヤマアラシの針に相当する、私たちが持っているものとは何か?である。ヤマアラシと同様、”私”自身を守る為に身につけたもの全部が針ではないかと思う。性格・プライド・価値観・社会性・人間性・身体的特徴・心遣いや配慮などが、それにあたる。ひと言で言うなら、”私”という”個性そのもの”である。それらがヤマアラシの針に相当するものと考えられる。

一方、ヤマアラシは仲間と向き合う時、針をどうしているのか?”折り畳む”のだ。相手が敵でない限り、折り畳んで向き合う。いざとなれば針を広げて防衛と攻撃をすれば良いからなのである。なるほど、合点がいく。私たちの内なる葛藤(小宇宙”ミクロコスモス”)は、大宇宙”マクロコスモス”に呼応するということなのだ。”解”がそこにある。

ヤマアラシに呼応して、私たちの”針”を折り畳むとは、前述の”私”自身を守る為に身につけたもの全部という”鎧”を脱ぐことになる。身につけたものでの”防衛”をやめて生身になることになる。確かに無防備は怖い。”私”がさらけ出されることであるから、とても難しい。何もかも他者に見せてしまうことになる。かなりの勇気がいるかも知れない。今までそんな風に生きた日は一日もないはずだから、とんでもないことだと映るに違いない。

昔、小学校の通知表に先生が書かれた言葉に勇気を貰い、今日までそう確信して生きて来た。「明け透けで無防備、素直でやわらかい、それがあなたの魅力です」通知表にである。粋で個性的で、常識にとらわれない先生だった。五年生だった。私は以前にも書いた通り、人から貶されることも褒められることも丁寧に辞退すると決めている。”私の評価”はこの私がすると決めているからだ。しかし、このK先生(女性)のお言葉だけは、信じて有り難く思い、素直に頂き心の糧として来た。私の宝物なのだ。

高校生以降、色々な場で色々な人から「お前は馬鹿か?」と、よく言われて来た。社会人となってからは、「先輩、本当にそんなので大丈夫ですか?甘いんじゃないですか?もっと防衛しないと、明け透け過ぎます」と、よく言われている。未だにそうだ。私は、いつも馬鹿がつくほど”明け透け”なのだ。それで困ったことは一度もない。困るどころか、まず人は”明け透け”な私に用心しない。だから、防衛を解除して友好的に接して頂ける。すぐに信じて貰えるのだ。(当然、攻撃はされない。私もすることはない)

ただ、私が防衛の為に身につけただろう様々な鎧を「私は着ない!」と、強い思いがあるから、いつも脱いで人に向かう。いざと言う時には着る覚悟はあるが、着たことは一度もない。私がポヨンポヨンで無防備なのは、これである。

誰しも”針”は持っている。いざと言う時は使えばいい。それを持っているということで”安心”を買えばいい。これがヤマアラシの”針を折り畳む”ということであり、彼らから”学ぶ”ことである。

もう十分に今までの人生で”針”なるものは準備した。それをいつでも使えるように私たちは”自分”を維持している。出来れば使わない方がいいのである。過剰に防衛などせず、他から信じてもらい、”安気でいる”ほうがいいのだ。力を抜いて、衛らなくても大丈夫だ。

亡きK先生

おかげさまで今日も元気に生きられます。
ありがとうございました。

合掌


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