加瀬野 洋二

場末のカウンセリング・ルームで心理臨床を生業とする老人である。そろそろ遺言を書かねばと…

加瀬野 洋二

場末のカウンセリング・ルームで心理臨床を生業とする老人である。そろそろ遺言を書かねばと、原稿用紙に 向き合う事にした。パソコンも操れない老人の為、心許せる方にこのnoteの管理を託した。

最近の記事

(136) 一度っきりを生きる

「演じるのは一度っきり」だと、高倉健さんは言う。また、「何回もやれというのは出来ない。自分の中で感じられないものは出来ないよね」とも言う。うぅ~んと考えさせられる。なるほどと思い、「流石」だと泣ける。 テクニックを排し、現場に”心”を晒し、その役に全神経を集中し、心の底から込み上げるもの・感じるものをさりげなく表現するのだから、何度も演じることは出来ないのだろう。その通りだ。”人生”も同じなのだと思う。 今は亡き高倉健さんのことが大好きである。そうと言うのは、大学生の頃、

    • (135) 花の命は短くて

      花の命は短くて 苦しきことのみ多かりき 美しい名言である。 林芙美子の『放浪記』は悲嘆と絶望をひたすら綴った小説で、何しろ強い衝撃を受ける。感動とは違い、強烈な言葉に圧倒される。同じ作家とは思えない美しい名言に涙がこぼれそうだ。 「人生は太く短く雄々しい」から生まれた名言なのだろう。「”生きて”いるからこそ、花の命の短さを嘆くことが出来る」と謳っているのに違いない。こんな言葉の紡ぎ方に心が震える思いだ。 生業上、たくさんの”生きる”ということのそれぞれの解釈を見させられ

      • (134) 「NO」と言えない

        まず、間違いなく誰しもの悩みだろう。 特に日本人はこれに欠けていると、国内外から揶揄されたりもする。これは「お国柄」であり、揶揄されることはそれほど気にしたり嫌悪することではない。 ただ、ここは当然「NO」でしょうという場面であるにも関わらず、その「NO」が言えない為に”流れ”を壊したり、自身が大きな”負担”を背負ったりするようなことは、避けたいものだ。だから、少なくともこの場面で「NO」と言わなかったとしたら、その先どう展開していくのかを注意深く考える必要がある。しかし、

        • (133) こんなに私が努力しているのに

          「こんなに私が努力しているのに」 誰しもそう思う時がある。 当然だ。 職場・家族や周囲の同情・理解・協力が足りていないと感じたら、周りに対する「批判」の気持ちを「どんなに私が無理をしているか」と訴えたとしても当然かも知れない。 この訴えの無意識の目的は、相手に「罪悪感」を感じさせ、「何とか協力をしなければ」という気持ちにさせたいのだと思う。相手を変えたいのだ。 その苦肉の策である。 しかし、これはなかなか思うような結果が得られない。何故だろうか?お互いのやり取りが一段落す

        (136) 一度っきりを生きる

          (132) 「不完全」上等

          「人や社会から認められる人間でありたい」 「社会に貢献出来て、必要とされる人間・・・」 と、誰でも少なからず心で願っている。 ”自己効力感”と呼ばれている。それが無いと、ますます自分が”無力”で”不完全”だと思わざるを得ないこともあり、その反動からその”自己効力感”をずっと願っているものである。本当に人って健気だ。 その願いは例外なく誰しもの願いであり、決して間違った願いのはずはない。しかし、気をつけなければならないことを多く含んでいるから、漠然とそれを願い生活するのでは大

          (132) 「不完全」上等

          (131) 携帯電話 - SNS

          携帯電話がなくてはならないものになった。 時代は変わったし、また、携帯電話が時代を大きく変えたと言える。 日頃電車に乗ることがない。 そんな私だが、先日愛車の車検の為車を届けに行った帰り、久しぶりに電車に乗ることになった。座席には座らず、ドア近くに吊革も持たず立つことにしている。大した意味はない。昼間であるからなのか、利用者はまばらで全員座っていた。それがまた・・・全員スマホとにらめっこしている。これはちょっと面白い。照れ隠しなのか、じっと正面の人を見るのが躊躇われるのか、

          (131) 携帯電話 - SNS

          (130) 奇妙な反応

          人は自分についてよく知らない。 自分との付き合いが長いにも関わらず、「灯台もと暗し」なのか、人のことはよく解かったとしても、なかなか「自分のこと」となると・・・不思議なものだ。 自分の”感情生活”に気づきにくいからだと考えられる。だから、次のようなことが日常の中で起ころうが「何故だろう?」と足を止めて考えようとしない・出来ないからだと思う。 例えば・・・ こうした”不快な感情”を味わうことが、日常生活の中にないだろうか?もし、このような”不快な感情”による行動が時々ある

          (130) 奇妙な反応

          (129) 人生に彩りを

          「トマトは嫌いだからなぁ・・・」 いやいや、構わない。トマトが嫌なのなら、ちょっと高いが赤いパプリカを飾ったらいいのだ。それで緑・黄・白・赤とバランスのとれたサラダが出来上がる。新タマネギなんて血液をサラサラにする。楽しくてバランスのとれた旨いサラダの出来上がりだ。これがサラダの”彩り”だ。 その割に、人生と言うのは下手すると”彩り”が大いに欠けたものになり、サクサクとした見た目も”上手く”なくなるものだ。それ程までに”余裕”がないのだ。仕事で疲れ果て、帰る電車か車の中で自

          (129) 人生に彩りを

          (128) 黄昏れる

          過去に”拠りどころ”を求めるのは、自分のこれまでの人生を”肯定”したいからだと、さもそれで良しというかのように世間で言われたりする。大切なのは”ここの今”だ。”ここの今”から目を背けることの代償として、過去に”拠りどころ”を求めたりすることは痛い。”今”から目を背けないで欲しい。私は生業上、こうクライアントに訴える。 「お前、この頃黄昏れていないか?」 と、二つ上の先輩から言われて怖くなり、食欲がなくなり、肩の張りと頭痛を主訴に来所となった。三十八歳、男性である。弱っている

          (128) 黄昏れる

          (127) ちょいと散歩〜姉とチビ坊

          とうとう「ウルトラセブン」と言えないまま、「マーマーマンセブン」を卒業した。つい最近まで目が覚めてから電池切れで寝る直前まで「マーマーマンセブン」になりきっていたのに・・・。今はスーパーマリオ命のようだ。 姉は小学二年生になった。前歯が二本抜けている。相変わらず大声で話すことは変わらない。 「パパ、ライザップに通ってもらおうか?」 との問いかけに、 「そんなの通っても中身が変わる訳じゃないから、また夫婦喧嘩するだけだよ」 などと生意気を言うまでになった。大人だか子どもだかよ

          (127) ちょいと散歩〜姉とチビ坊

          (126) 合点承知

          「う~ん・・・理屈はわかるんですけど、何だかピンと来ません。これがダメなんですよね?」 「ダメかどうか、これ以降みないとだけど、今の君にとって目から鱗が落ちる場面であって欲しいと願って話した訳だけど・・・」 よくクライアントとこんなやり取りになることがある。焦ることは良くないからと思うのだが、「ここで」まずこのことだけは押さえたいと思うものだから、目から鱗であって欲しいと願って試みた結果である。ここが思案のしどころである。この話がもう少し時間をかけて半年後であったなら、クラ

          (126) 合点承知

          (125) STAGE

          近頃「生臭く」なくなった。 孫のチビ坊のことである。ミルクを飲み、よだれを垂らして近づいてくると、確かに生臭かった。この頃はお兄ちゃんらしい匂いになった。 そんなチビ坊は昨年の九月、必死の思いでエェ~ンエェ~ンの”ステージ”に立った。と、いうのも三歳となる少し前に三歳未満児のクラスに入園したのだ。初め二日ほどママと一緒に登園してよかったのだが、三日目からはママは途中で退席して、チビ坊はひとりになる初めての経験をし、集団へのデビューをしたのだった。二、三日エェ~ンエェ~ンした

          (124) 持ち分

          「あなたの”持ち分”は何でしょうか?」  「”持ち分” ?私は今、何もかも失くしました。”持ち分”というものは何ひとつありません」 こんな訳のわからないやり取りから始めるしかなかったのだが、私の考えに考えた末の苦肉の”配慮”だったつもりだ。 三十四歳、八ヶ月前最愛の奥様を亡くされ、失意の中出勤することが出来なくなり自室に引きこもる生活しか出来なかった。年長組に通う愛娘さんのお世話さえも全く出来ず、両親に任せるしかなかったらしい。自室から出るのは風呂とトイレ以外になかったと

          (124) 持ち分

          (123) 心が折れる

          「人からの評価を気にしない」と決心して生きることは、とても難しいことである。また、他人からの評価を受けることで自分がやる気になることがあるものだから、一概に否定することが出来ないでいるのかも知れない。だからと言って、そのことにこだわると、”他者・社会”の評価ばかりが気になることになり、自分の心からの”思い”で事を進めることが出来なくなってしまう。 その結果、自分が「善い」と思うことではなく、「他人が褒めてくれること」をやるようになる。 確かに私たちは弱く、寂しがりやでもあ

          (123) 心が折れる

          (122) 競争

          「誰と競争してるの?」 「課の全員ですかね。いや、課だけではないかも知れません」 「それって気の休まる暇なんかないよね」 「Sとは同期入社で、私は一浪してましたから、私がひとつ年上です。そのSが十月に昇進して係長になりました。それ以来、朝は目覚めが悪く、夜もろくに眠れていません。一日気分が重く、力が抜けたようで何に対しても熱が入りません」 「競争に敗れたと思うのですか?」 「野球でもサッカーでも、今日敗れたからといって、次の試合がある訳ですから大丈夫なんでしょうけど、僕の場合

          (121)「本質」をみる

          「大勢で同じ品を注文しても、それぞれ一人前で出し、盛り合わせはしない。鍋ものでも一人一鍋仕立てだ」 あの憧れの存在である太田和彦さんが自身の著書『超居酒屋入門』の中で、そんな居酒屋さんを”粋”だと絶賛している。たかが酒呑みの自分勝手と、”野暮”なことを言ってはならない。ここには太田さんの、全国を巡り酒を友とし培ってきた”哲学”が盛り込まれたひと言であるのだ。そんな訳で私たちは勉強になる。飄々とした、そう、そよ風が吹くが如き様子の太田さんであるが、居酒屋で人を見つめるその目、

          (121)「本質」をみる