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(121)「本質」をみる

「大勢で同じ品を注文しても、それぞれ一人前で出し、盛り合わせはしない。鍋ものでも一人一鍋仕立てだ」

あの憧れの存在である太田和彦さんが自身の著書『超居酒屋入門』の中で、そんな居酒屋さんを”粋”だと絶賛している。たかが酒呑みの自分勝手と、”野暮”なことを言ってはならない。ここには太田さんの、全国を巡り酒を友とし培ってきた”哲学”が盛り込まれたひと言であるのだ。そんな訳で私たちは勉強になる。飄々とした、そう、そよ風が吹くが如き様子の太田さんであるが、居酒屋で人を見つめるその目、料理を味わってのひと言に、店主に掛けるその問いかけに、「洞察力」の深さをいつも感じている。

私たちは日々の生活の中で、”安定”しない感覚を持つことが多々ある。決して”不安定”とまで言う程ではないのだが、しっくりこない程度に首をかしげることがある。忙しい毎日であるから、足を止めてこの感覚ってなんだ?ということがない。深く考えてみることがないのだけれど、何だか重要なことを見落としている気がして気味が悪い。

この”安定”しないというのは、目の前にある課題・仕事・その他の日常と今の精神状態の私との「ギア」の噛み合わせが合っていないのだと思う。目の前にあるその何かがよく感じとれていない、理解がされていないということであり、言ってみればそれらの事の”本質”が見えていないということである。

”本質”がよく見えておらず理解が出来ていないのだから、「何に」自分を「どう」合わせたらいいのかが当然わからないため、どの「ギア」に入れたらいいのかわからない”安定”のなさだと思われる。ドライブ中、急な下り坂に差し掛かった。その下り坂の傾斜の程度を見誤ると、エンジンブレーキの為に入れた「ギア」が合わないということがよくある。それと同じ”安定”のなさということになる。

このように、「”本質”によく適っているか?」ということが、「”安定”した時間を変わらず持ちたい」と願う私たちにはとても重要なこととなる。もうひとつ、こちら側の問題がもっと重要だと考えられる。こちら側とは私たち自身そのものである。

目の前にあるものの”本質”をよく知ること。それと同時に、”私”というものの”本質”をよく知らないと適った対応が出来ないことになる。

太田さんが居酒屋さんの”粋”な計らいと絶賛したそれらは、居酒屋主人の酒呑みの”本質”を見抜いた上での、居酒屋さんの「ギア」の選択によるものだと思われる。鍋ものは大人数で来店しても「一人鍋仕立て」、これは酒呑みにはそれぞれペースがあるものだし、一緒鍋、一緒盛りでは妙に遠慮し合ったりしてしまうから、気を遣わせないための配慮ということであり、客の”本質”を見極めた上での「ギア」の入れ方なのだ。

これを”粋”と褒める太田さんもまた”粋”なのだ。そんな居酒屋店主のプロ意識と、太田さんの”本質”を見極める目に頭が下がる。

私たちは、これが”本質”だと確信する場面で、”野暮”にもそれらを殺ぐことをしてしまうことがある。確かに私たちの日常は、様々な方面に気を配り、課題を抱えて持ちうるエネルギーを精一杯使い、今一日生きてギリギリの生活である。そうであるから、「”安定”した時間を変わらず持ちたい」と願いながらも、目の前の”本質”に迫れず現状に適った対応が出来ないでいることが多い。そうは言いながらも、”安定”しない感覚の正体の”本質”が見極められていないことからくる「ギア」の噛み合わせの不具合からだとなると、”野暮”なままではいられないなと思う。

さて、そうだからと言って”本質”を見極めるなんてことは難しいことだ。まず、「これはこうだ」「こうでもある」と思うままに評価してみることが第一歩として始まりとなる。この「これはこうだ」「こうでもある」というのは大切な一歩となる。その後に続く「それは少し違う」「それはズレている」を生むことになることもある。考えられる限り、自分の知る限りのそれぞれの角度から”本質”に迫ろうと位置づけてみればいい。その後、垂直の位置に立って、今までの「これはこうだ」「こうでもある」「それは少し違う」「それは
ズレている」を俯瞰する位置から見て判断するといい。ぼんやり捉えるより”本質”に近づけるはずである。

これ以上深刻になることはない。”本質”に近づけるパターンを意識して、それを試してみればいいと思う。

”安定”した時間を変わらず持ちたい」と願っている私たちだから、その”安定”を求める重要な要素が、”本質”に迫るということであることを、心に留めておきたいものである。


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