見出し画像

自由の中から「個性」は生まれない

好きなようにしていいよ。

これがとても苦手だった。
子供の頃から、絵を描くにも砂遊びをするにも、何を作ればいいのかわからないからだ。

何かを選択するのが苦手で、「好きなものを描く」「好きなものを作る」「好きなことを書く」という指示がとても嫌いだった。

何と決められた方が楽だから。

しかし、かと言って個性や自分の意思がなかったわけではない。

プール遊びをしましょうと言われてもその通りにはせず、木登りをして先生を困らせた。

みんなで大きなお山を作ろうと先導する先生をよそに、1人でカッチカチの泥団子を作るのに一生懸命だった。

父が迎えにきても手洗いをやめず、付き合うのが大変だったと今でも言われる。

好きなこと、やりたいことがなかったわけではない。あまのじゃくとも少し違う。

「さぁ、いざ今から好きなことを」と自由を与えられるのが嫌だったんだ。

・・・

今の保育や教育は、子供たちの「自主性・主体性」を重んじる。私は、この時代に子供でなくて良かったと心から思う。

あの頃の私だったら…
「好きなことをしていい」がすこぶる苦手だったあの頃の私だったら、さぞ辛いだろう。

好きなだけ気に登り、気がすむまで泥団子を作り、手を洗い続けることを咎められなくなるのはいいが、それらは強制からはみ出した私の個性だ。

個性とは、自由の中から生まれるのではない。

同じことをやらせても、歩く道をひかれても、はみ出していくものが個性だと思う。

思いつくまま気の向くままに、好き勝手することが個性ではない。ルールや規制の中でも、輝きを失わないものが個性なのではないかと思うからだ。

・・・

noteは書式が決まっている。

明朝体も選べるらしいが、大体皆が同じゴシック体で、色が選べるわけでもフォントサイズを自由にできるわけでもない、

一定のルールの上で成り立つ記事。

じゃあ、これらの記事に個性がないだろうか。

いや、それぞれに個性はある。
無いように見えるのもまた「個性」の一部である。


そういうことです。

今後も有料記事を書くつもりはありません。いただきましたサポートは、創作活動(絵本・書道など)の費用に使用させていただきます。