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自己実現のためだけの詩は

「何らかの言語メッセージが「詩」と呼ばれる芸術であるためには、表現が表現そのものを指向する必要がある」という文章を読んだことがある。

そもそも「詩」とはなにか。

おそらくこの問いに明確な答えはないだろう。詩を書く者にとっては、ある一定の基準や「私にとっての詩とは 」という答えがあるかもしれない。
また、読み手にとっても「私の好きな詩」という一個人としての見解でしかこの問いに答えることは出来ず、やはり書き手の問題であるように感じる。よって、ある一定のルールに則って「詩」を証明することは大変難儀なことなのだ。

ただし「詩的言語」という言葉がある。これも明確ルールや性質を証明することが難しいことに変わりがないが、異化をすることでそのヒントが得られるのではないかと思う。
異化、つまり日常的言語を並べ、それらを詩的言語に変換する作業過程の中にあるものが答えではないか、と。

ヤコブソンは『言語学と詩学』の中で「言語メッセージを芸術作品たらしめるものはなにか」を問いた上で、詩的言語と日常言語があるわけではなく、条件によって詩的作品となると謳った。それがテキストにも挙げられた言語の六機能のうちの一つ「メッセージ」である 。メッセージそのものへの指向が詩的要素となり、メッセージは言語の六機能のうちもっとも詩的機能 を担っている。

しかし、ここで疑問が残る。それは日常的言語と詩的言語の分類である。果たして何を以って「これは日常的言語である」という証明が出来るのであろうか。日常的・実用的な発言が美的機能を欠いているわけではないからだ。

「文学は言語でつくった芸術である」と述べた吉本隆明は『言語にとって美とはなにか』という本の中で、日本語の表現にとってなにが美であるかということを問題にしている。吉本氏によると、文学作品や言葉で表現された文章は「指示表出」と「自己表出」によって織り出されたものであるということを強く唱えているが、私はこの本の中で「詩の表現に必要な言語の特性」について書かれているところに注目したい。

その特性のひとつとして吉本氏は「比喩」を挙げている。そして直喩と隠喩に区別することが大切であることや、隠喩の定義は「一つの言葉の意味を通常の意味から別の意味に移す」ことであると論じた。そしてシュルレアリストの隠喩的表現と詩の「隠喩」は異なり、「別の意味に移す」ということにつ いて次のように述べている。

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いま、野原にいちめん白いクローバーの花が咲いていたと仮定する。それを視て、ある者はた だ<クローバー>といい、ある者は<白い>といい、ある者は<たくさん>といい、ある者は< きれい>といい、ある者は<いい香りがする>という。こういう可能性が無数なことはたやすくわかる。しかし、どんなに言葉をつみ重ねても、現に眼のまえにその光景を視ながら、それをそ のまま言語で再現できないことは先天的に決まっている。言語は自己表出を手に入れたときから 知覚の次元を離脱してしまったからだ。もし、あるひとつの文章が野原いちめんにさいた白いクローバーの像をほうふつとさせることができたとすれば、その文章は視覚的な印象のつみ重ねに よらず、言語の像をよびおこす力をくみあわせた想像的な表出の力によっている。
(『言語にとって美とはなにか』吉本隆明)
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その他にも日本語として考えるのであれば、助詞の「てにをは」に関する事項なども吉本氏は述べているのだが、つまりはヤコブソンの詩的表現の条件だけでは日本語には説明がつかない部分が多くある ということだ。

また近年の社会的背景からみても「ありのまま」と言えば固定のイメージがついてまわり、流行や使われ方によって言葉は大きく左右されることを痛感させられる。

そのため、この定義も時代背景によって変化することもあるのだが、詩的要素が普遍的なものとして言葉の選び方やリズム ・文字に起こしたときの見え方など様々なことが挙げられると思う。

ヤコブソンと吉本氏のどちらにも共通しているのは「誰かに伝えるために発信されたもの」ということが挙げられ、この理由のみで 「詩的言語」になりうるのではないかと私は考える。

自己実現だけのための詩は詩ではない。

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