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目的は伝わることですか?

「そこまでこだわらなくていいよ。伝わればいいんだから」

最近になって、私が職場で頻繁に言われる言葉だ。いろんな人に言われる訳ではなく、特定の人から言われていることなので、その人から見れば私は相当に「こだわりが強い人」だろう。

言葉にこだわりが多少あることは認めよう。事実として、その人が書く文章は基本的な文法の間違いや、てにをはの誤り、同じ語尾の連続、内容の重複等、直すべきことが多いので私が正す作業が多い。

しかし、「正しい日本語」にこだわっているわけではない。「より正しく伝わるための工夫」をしているのだ。結果として、正しくなっているだけで。

もちろん、普段の日常会話で指摘することはない。「これ食べれる?」と聞かれて、それは“ら抜き言葉だよ”と注意するなんていう野暮なこともしないのだが、指摘しすぎるがあまり、結果として私は「正しい日本語」を使いたがる人」になっている。

腑には落ちないが、仕方がない。

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仕事においては、教育関連の仕事をしていることもあり、「より正しく、正確に、10人が10人同じ解釈ができるように」ということを念頭に置いて文章を作る。もちろん100%を伝えることは容易ではないが、この意識は忘れないようにしたいと思っている。

しかし、日常の会話では半分くらい伝われば御の字で、文芸・造形における創作活動においては、「伝わる人に、伝わればいい」というスタンスである。

「伝わる人に、伝わればいい」というのは、あきらめからくる言葉ではない。商業目的ではなく、他から芸術と呼ばれる作品においては、その良さが万人に好感を得られるものの方が嘘くさいと思うのだ。

『ライ麦畑でつかまえて』の作者、J.D.サリンジャーが書いた『ナインストーリーズ』という短編集がある。

この作品は日本だけでも10人以上の翻訳者によって訳され、出版されている。学生時代、すべての翻訳作品を読んだのだが、作品中や後書きの中で、翻訳者たちが大切にしていることはてんでバラバラだったことに衝撃を覚えた。

また、これは大学で働いていた時のことだが、よくお話をする教授の著作が、センター試験で取り扱われた。問題を見たその教授にも解けず「この答えはなんですか?」と問い合わせたという話を聞いた。

作品というのはそんなものだ。
それからは、作者の思いが伝わったかというのは二の次で、読者や鑑賞者に「いい!」と思わせる輝きさえあれば、それでいいのではないかと思うようになった。

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だからスキに振り回されないぞ。
先日書いたnoteの反応があまりにもなかったからと言って、憂うことはないのだ。

と言い聞かせている今日このごろ。

今後も有料記事を書くつもりはありません。いただきましたサポートは、創作活動(絵本・書道など)の費用に使用させていただきます。