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本物の「出来ない人」

皆は自己評価を正当にできているだろうか。

こんなことを考えてしまったのは「私これできないから」「こういう仕事、得意だよね?やってもらえる?」と、様々な"出来ること"を諦める癖がついた同僚のせいだろう。

仕事というのは、時として協力するべき時がある。業種にもよるが、多かれ少なかれ「力を合わせる」ことが求められる場があるだろう。

ただ「力を合わせる」というのは、おじいさん・おばあさん・孫娘・犬・猫・ネズミが寄ってたかって一つかぶを引っ張るようなものではない。

むしろ多くの場合は、担当ごとに各々の実力を活かし、適材適所に役割を振ることができることが理想ではないか。

良い例えが見つからないが、強いて言えば1匹のモンスターに対して、太刀や双剣で着実にダメージを与えつつ、一撃ハンマーで頭を狙う者もいれば、狩猟笛で皆を回復させる者もいて、総力で挑むといったいったところだろうか。

緊急事態であればあるほど、その必要性があることは分かっている。出来る人がやる。

ただ、私が問題にしたいのは「その出来ないこと、いつまで出来ないままにするの?」ってこと。

・・・

私は自己評価が上手くできない。何故なら、自分の出来ることと出来ないことの分別が明確ではないし、向き不向きすら曖昧である。

もちろん他人と比べて上手く出来る出来ないや、経験の有無は明確だ。比較する相対の範囲や基準さえあれば、ある程度の自己評価はもちろんできる。

しかしこれは「現時点では」ということ。

誰かができていることの大概は、もしかしたら自分にもできるのではないかと思っているからだ。

この「やればできる」というのは、もちろん精神論だけの話ではなく、正しい情報とプロセスと共に経験値を積めば「やればできる」のであり、これらを踏まえて初めて「向き不向き」や「出来る出来ない」を判断すべきではないか。

ビックマウスに何でもできると言いふらすのも考えものだ。そして謙遜しすぎる必要もない。

ただ、現時点での能力を決めつけて「向いてない」「出来ない」の言葉を振りかざすことは、自分自身の能力を諦めるだけでなく、周囲の人間からも諦められ、本物の「出来ない人」になっていく手段である。

そうはなりたくないというお話。

今後も有料記事を書くつもりはありません。いただきましたサポートは、創作活動(絵本・書道など)の費用に使用させていただきます。