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無知のヴェールを基に社会をより良く変革する

部下のミスに対して叱る上司がいる。
職場において給料をもらう以上、
きちんと業務を遂行する法的義務が生じるし、
場合によっては業務の不適切な遂行が人の命に関わることもあるため、
その場合、安全にも絶対的に配慮して業務遂行にあたらなければならない。
しかし、安全に関わらない単なる凡ミスに対して
「なんでできないんだ!?」「なんでしないんだ!?」と
あまりに攻め続けるのは
それは指導として無理があり過ぎて不適切だと思う。

元々、才能があるというのは、生まれの運である。
努力して才能を開花させた人も
努力が継続できるという才能持った生まれの運による。
努力できる時間と予算があったのも運である。

才能は運によるものであるから、
能力が無くて仕事ができない人に対して
「なんでできないんだ!?」と怒って迫るのは
くじを引いてハズレた人に対して
なぜハズレたんだと責める行為に近いのではないだろうか?
それは理不尽ではないだろうか?
次に生まれ変わる時は逆の立場になるかもしれない。

どんな風に生まれるかはわからない
と言う哲学で言う無知のヴェールの状態を前提にして
どんな風に生まれても皆が幸せになれるように
社会体制を変えた方が良いのではないだろうか。

一寸先は闇。
どんな風に生まれても
辛い人生にならないように
常に罪(ミス)を憎んで人を憎まずで
失敗を犯した人を責め過ぎない。
失敗を責め、その人個人の人格を否定しない。

正義と悪はあるが、
立場上・法律上のもので絶対的なものもあるが、
個人の人格とは別個。
「正義・悪」と「個人」は関わりはあるけれど
そこは無心に切り離して考えるべきである

場合にもよるが、とにかく博愛心を以て
叱る際は指導の際は、
相手の能力・性格・生活状況・人生観まで考慮して指導。
責め過ぎないことが大事である。
もちろん、その後、仕事等ができるようになる教育体制や
社会における行き場・受け皿としての社会体制も用意した上でである。
その上で職務の安全且つ適切な遂行に努めて行くべきである。

そもそも自分の得意な領域で、
仕事等ができて大威張り・大マウントはおかしいと私は思う。
シンプルな話、得意な人は得意でできて当たり前だし、
苦手な人は苦手で当たり前。
普通レベルにしかできないのも普通レベルの人にとっては当たり前である。
能力は前述の通り、運要素が高い"ガチャ"なのだから、
それがあってできて大威張りはおかしい。
くじで当たりを引いてそれを喜んでも良いが、
それがまるで自分の真の実力かのように大威張りは話として違うだろう。
能力があって仕事はできることは単に運要素の高いくじで
たまたま当たりを引いたことと等しいのだから。
もちろん、きちんと仕事等できる人はすごいし、
努力も実際している・したのだろうから
それ相応の評価的恩賞はあって良いが。

ミスの多い部下に対して仕事のできる上司が
叱るのは職務上・法律上、度が過ぎていなければ適切だが、
それでずっと他人より上に立ち続けて
周囲の人が過度の不快感や苦しみを感じるようなら
その叱責は不適切である。適切が適切とは限らないのである。
むしろその才能のあるできる上司も
才能があるからこそより高いレベルに挑戦して
細心の注意を払ってミスを起こさせないための
部下の管理や教育的指導に尽力すべきである。

適切だから上司が正しい、
不適切だから部下が間違っているという
単純な図式ではないのである。

|| まとめ


社会や会社組織は、
能力・精神性の低い人たちの
行き場や受け皿、教育体制を
もっと細かく用意する。

上司の立場にあたる人は、
部下がミスしないようより細かい管理・教育的指導と
仕事における相応の人道的配慮をする。

部下の立場にあたる人は、
社会・会社組織・上司に甘んじず、
できるだけ自分自身でも能力・精神性を高めて
仕事ができるようになる努力をし、
常にミスの無いよう注意を払う。

周りの同僚は、
自分自身のことだけでなく、
他の同僚のバックアップにも努める。

どんな風に生まれるかはわからないのだから
どんな風に生まれても幸せになれるよう、
そう言ったように無知のヴェールを考慮し、
個人や社会が皆一人一人それぞれの立場の人のことを考えて
細かく尽力して生きることが大事なのである。

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