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1996年からの私〜第31回(15年)2009年6月13日からの三沢光晴〔前編〕

自分の気持ちに決着をつけるために

多忙を極めた2014年の年末、『読む野球』を一緒に制作している主婦の友社の佐々木亮虎さん、そしてノンフィクション作家の長谷川晶一さんとともに企画を考えながら飲んでいました。いい具合に酔っ払ってきた頃、佐々木さんが真剣な表情になって、「三沢さんの書籍を作りませんか?」と問いかけてきました。

「来年は三沢さんの七回忌じゃないですか。佐久間さん、一緒に三沢さんの書籍を作りませんか? いろいろ言われているあのときのことをしっかり取材して、関わってきた人たちがそれからどんな時間を過ごしてきたのか、三沢さんがいない現実をみんなどうやって受け止めてきたのか、そういう本を作りませんか?」

この時、飲んでいたお店は三沢さんが「マブダチ」と呼んだ方のお店。この店ではご主人も交えて三沢さんの思い出話をすることも多々ありました。そうしたこともあって、佐々木さんはいつか三沢さんの本を作りたいと思っていたと言います。とにかくいい作品を作りたいから一緒にやってほしい。その熱量は酔いが覚めるほどでした。

嬉しい提案ではありましたが、私の中では二つ返事でイエスとは言えない思いがありました。古巣であるBBMに対する配慮もありましたが、それ以上に大きかったのが、三沢さんの死と向き合うことへの恐怖です。周囲の人たちの取材をするのが怖かったのです。

週プロ時代、三沢さんの死後、ゆかりの人物へのインタビューを連載していましたが、私はそれを一度も担当しませんでした。表向きは編集長だからまとめ役をやるということになっていたものの、本当の理由は怖かったからです。第22回第23回で書いたように、事故があったとき自分としては、これ以上誰も傷つかないようにと思って精一杯やっていましたが、実際には人がどう思っているかはわかりません。バックドロップの写真を載せる判断をしたこと、告別式取材を見送ったこと、そのほかの振る舞いに対して、選手や近い関係者の声を聞くのが怖くて避けていました。

怖いから避けたままでいたい。そう思う一方で、6年分のさまざまな気持ちに決着をつけたいという思いもありました。また、BBM時代に上役との衝突から三沢さんのメモリアル写真集が不本意なものとなってしまった経緯もあり、いい作品をつくりたいという思いも強くありました。佐々木さんなら自分が納得いくまでやらせてくれる。そんな信頼もあり、提案に乗ることを決めました。そして執筆は自分でするのではなく、一番信頼している書き手である長谷川さんに依頼。あのときの当事者ではなく、ニュートラルな視点から書いてもらったほうがより良いものになると思ったからです。

博多、広島で濃密な取材

やると決まったらまずはNOAHを通じて三沢夫人の真由美さんに出版の許可をいただき、必ずいいものをつくりますと約束。取材する方々を人選していき、ある程度の完成図を描きます。事故があった当日、集中治療室で三沢さんの治療にあたり、最期を看取った広島大学病院の医師の取材は、絶対にしたいと考えていました。デリケートな案件だけにハードルが高いことはわかっています。それでも最高の作品をつくるために、最期の瞬間の真実を知る医師への取材は不可欠でした。

事故当日の広島大会の取材にあたっていたマスコミやレスラーたちの取材を重ねていき、当日の様子が少しずつ見えてきます。このときは一つの取材が終わるごとに長谷川さんと二人で飲みに行っていました。事故当時のことを聞くのはあまりにも心に重く、胸が苦しくなる思いで、それを解放しないと耐えられなかったからです。飲みながら取材を振り返りつつ、私なりの解釈を長谷川さんに伝え、内容を深めていくことを繰り返していきます。

そして取材開始から1カ月が過ぎた頃、博多、そして広島へと取材に行きます。博多の取材は当時、観客として来場していながら、リングで緊急処置をすることになった武田、二宮両医師の取材。そして、三沢さんが亡くなる前日の深夜に電話をかけた、「先生」と慕った人物の取材でした。博多に行った流れで現場である広島グリーンアリーナの建物内の構造や、病院までの車移動の道や時間を取材。もちろん、ここで広島大学病院の医師の取材もするつもりでした。

真由美夫人の承諾書を病院に送り、返答を待っていましたが、博多への出発時点では、まだアポは取れていませんでした。遺族からの承諾書があるため病院側はOK。あとは医師本人がどうするかという確認待ちの状態のまま、私と長谷川さんは博多へと向かいました。

武田医師、二宮医師とは古くからの顔なじみで、三沢さんのヨーロッパ遠征に一緒に行ったり、国内でも大会後に飲む仲だったため、会食しながら取材。最後まで三沢さんの治療にあたった広島大学病院の貞森拓磨医師の奥様が、武田医師と大学時代の同級生という縁もあり、改めて取材をしたい意向を伝えてもらいました。その深夜、ホテルに戻ってメールを確認すると、取材OKの連絡が入っていました。大学病院と時間や場所の詳細を詰め、夜勤明けの貞森医師を取材できることとなりました。

翌朝、私と長谷川さんは広島へ。夕方から博多に戻って「先生」の取材があるため、ヘビーな一日となることが予想できました。

静まり返った一室で勤務を終えて私服に着替えた貞森医師と対面。あのときのことを話すのは当然初めてだと言います。貞森医師はプロレスラー三沢光晴のこともよく知っていて、新聞やネットで憶測でいろいろ語られているのも見ていたため、遺族の承諾を得て取材を申し込んできた私たちに、何があったのかを伝えたいと思ったと取材を受けてくれた理由を話してくれました。詳しい内容は書籍に書いてあるので割愛しますが、「もう帰るだけなので時間は気にしなくていいです」と、夜勤明けにもかかわらず、貞森医師は我々と向かい合ってくれました。懸命な治療の様子や最後の決断をしたときの話しを聞いたときは、本当に呼吸が苦しくなる思いでしたが、最高のノンフィクションをつくるために不可欠な取材であり、実りの大きい取材となりました。

取材を終えると、すぐさま博多へとんぼ返り。そして真言宗の僧侶である「先生」の取材です。我々の取材申し込みに対してかなり警戒していたようで、事前に住所を教えてもらえず、最寄りのバス停まできたら電話するようにと伝えられていました。街中から離れたそのバス停に着いて、窓口となってくれていた「先生」の息子さんに電話。電話で道を案内されながら、取材場所へと到着しました。

通された部屋にはいくつもの仏像、観音様が飾られています。異様な空気でまだ肌寒い季節だったにもかかわらず、汗が出てきます。一人で取材に来ていたとしたらこの重圧に耐えられるとは思えません。相手の様子がわからず、百戦錬磨の長谷川さんも少し緊張しているようでした。

お茶を持ってきてくれた息子さんから「母は少し前に体調を崩して、まだあまり良くないので、できるだけ短い時間でお願いします」と釘を刺されます。そして少し足を引きずりながら「先生」が部屋に入ってきました。

「三沢さんの話って何の話が聞きたいと?」

「先生」は警戒するようにぶっきらぼうにそう言いました。我々が何者であるかを名乗り、なぜこうした取材をしているのかを伝え、あなたが知る三沢さんを教えてほしいと話を切り出しました。聞けば「先生」は脳梗塞を患い、回復途中とのこと。最初はゆっくり事故前日の深夜の電話のことを話し始めました。

胃がキリキリするような緊張感の中で始まった取材でしたが、時間が進むに連れ、そして三沢さんとの楽しい思い出話をしていると、「先生」も元気になっていくようでした。それだけ三沢さんと過ごした時間がかけがえのないものだったということでしょう。「短い時間で」と言われていたのに、気づけば2時間以上も話していました。

そして、息子さんが当時営業していたお店に、私も三沢さんと一緒にお邪魔していたこともわかり、最後は「もう少し暖かい時期になったら、あなたたちも三沢さんがやった滝行をやりにきなさい」と言われるくらい打ち解けて、取材は終了。プライベートでの三沢さんの秘蔵写真を見せてもらったり、そのときの話を聞いたりと、いい取材ができました。後日、息子さんから「あの日以来、母がすごく元気なんです。ありがとうございました」とメールをいただき、何とも嬉しい気持ちになりました。

大きな成果を得た広島、博多取材を終えて帰京。作品は確実に完成へと近づいていましたが、まだ大事な取材が二つ残っていました。それはこの書籍にとって極めて重要な取材であると同時に、私にとって6年分の思いに決着をつけるための取材。怖いから避けたいと思っていた現実と、向き合うときは目の前まで迫っていました。

つづく

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