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1996年からの私〜第22回(09年)2009年6月13日からの激動

2009年6月13日

プロレスファンにとって「2009年6月13日」という日付は、記憶に刻まれている数字でしょう。三沢光晴選手が試合中に命を落とした、忘れたくても忘れられないあの日です。

前年の秋以降、急激な部数低下を受け、常に数字と向き合う日々が続いていました。この年は表紙になるような大きな試合がない週も多く、頭を悩ませる毎日。ただ、6月第2週は表紙候補のネタがありました。全日本6・10後楽園大会で、船木誠勝選手のプロレス復帰が決定。武藤敬司選手とのツーショットは表紙候補の筆頭でした。また、6月14日には、新日本のベスト・オブ・ザ・スーパージュニアの決勝があり、鮮度的に内容によってはこちらを表紙にとも考えていました。

NOAHは週末に広島でGHCダッグ、博多でGHCヘビーのタイトルマッチが組まれていました。GHCのタイトル戦は普段なら表紙候補ですが、私の中でこのときは三番手の位置づけ。時間もお金もかかる出張であり、取材を見送ることにしました。

6月13日、土曜日。週プロの入稿日は木・金・日曜のため、取材や急ぎの作業がなければ土曜日は休むことができます。この日は都内で目ぼしい試合はなく、久しぶりの土曜の休日。奇しくも母が三沢さんと同じ6月18日に生まれで、還暦の誕生日を前に祝いをすることになっていて、家族とともに横浜の実家を訪問していました。

お祝いの席が終わって帰宅する車中で、広島に行っている部下から着信。時間は21時を過ぎた頃なので、試合の報告です。「すごい試合だったから表紙にしてほしい」…そんなポジティブな内容を予想して応対すると、受話器の向こうからは「三沢さんが心肺停止です」と悲痛な声が聞こえてきました。

バックドロップを受けた後、立ち上がれなくなり、そのまま病院に運ばれた。意識不明で最悪の事態も考えられる。そんな報告を受け、頭の中が真っ白になるような思いでした。

帰宅した頃には、私の携帯に多方面から問い合わせの電話がかかってくるようになっていました。翌朝の4時くらいまで、絶えず鳴り続ける異常事態。最初は応対していましたが、現場のことがわからず無責任な発言をできないこともあり、途中からは応対することをやめました。

上に立つ者の仕事は決定すること

深夜0時過ぎ、現場から三沢さんが亡くなったという連絡を受けました。報告より先にインターネット上には、三沢死去というニュースが出ていたため覚悟はしていましたが、正式な報告を受け、愕然としました。しかし、悲しんでばかりもいられません。週刊プロレスとして、やらなければいけないことがあるからです。

この後、BBMの池田社長からも電話があり、本誌とは別に追悼号を発行するから、同時進行で制作にあたってほしいということを告げられました。そして問題の場面の写真はあるのか?と。現場からは最後の技となった齋藤彰俊選手のバックドロップのシーンはあるという報告を受けていたので、それを伝えると、「掲載するかどうかは編集長判断に任せる」と一任してもらいました。

上に立つ人間の一番大事な仕事は、決定することです。このとき私が決定すべきことは二つありました。まず最初にやるべきことは、最後のバックドロップを掲載するか否かの判断。自宅のPCに送られてきた写真を見て、これは掲載すべきだとすぐに判断しました。写真を見る限り技が不完全だったわけではなく、齋藤選手に過失はないと思ったからです。もしも掲載を見送れば、証拠隠滅のような疑いをかけられるのではないか? だとしたらこの写真を載せることで、特別おかしな場面ではなかったことを伝えたほうがいい。そう判断しました。

そして実際に現場で見ていた井上記者に「俺は載せるべきだと思うけど、実際に見ていた側としてはどう思う?」と問いました。彼からも「僕も載せたほうがいいと思います」という同意を受けて、誌面での掲載にゴーを出しました。

自分としては良かれと思っての判断でしたが、のちに「週プロはあんな場面を連写で載せてひどい」と非難の声があることを知りました。齋藤選手への嫌がらせもあったと聞き、もしかしたら自分の下した判断がまずかったのか…と思い悩むことになります。この胸のモヤモヤが晴れるのは、それから6年の月日を要することになります。この話は2015年に主婦の友社より発売された『2009年6月13日からの三沢光晴』という本に書かれているので、気になる方はそちらをご覧ください。


話が逸れました。私がもう一つ決めるべきことは表紙です。三沢さんの現役最後の表紙となる本誌だから、倒れている場面にはしたくない。三沢さんらしい勇敢なファイトシーンを使いたい。それは写真を見る前から決めていました。あいにくこの試合での三沢さんの出番は少なく、表紙にふさわしいような写真はありません。それでもファイト写真でないと意味がないので、エルボーを打ち込む写真をチョイスし、「勇姿を胸に焼きつけろ」とコピーをつけました。絶対に「死」という文字は使いたくなかったのです。

三沢さんの事故を受けて、私が最初に決定したことがこの二つです。その後も私はいくつもの難しい判断を迫られることになります。自分の三沢さんへの思いと、会社のモノを売るというビジネス的視点との狭間で、苦しんでいくことになるのでした。

間違った報道をしない、させない

眠れぬ夜を過ごし、翌14日は始発が動き始めて間もなく出社。新日本の取材は夜であり、その前に増刊号の台割りをつくり、原稿を発注。そして過去の写真を大量に引っ張り出します。気持ちを紛らわすため、そしてより良いものつくるために早朝から無心で写真ファイル、DVDを見続けました。

日曜日は本誌の最終入稿日なので、まずはそちらが最優先。夕方から新日本の後楽園大会の取材に行き、大会終わりで本誌の入稿作業が本格化。NOAH博多大会での報告を受けながら、台割を再調整し、現地から届く原稿を細かくチェックします。

現場の井上記者に指示したことは、とにかく正確な情報のみを伝えるということ。いろいろなメディアが憶測混じりに書くことはわかっていたので、週プロがやるべきは確かな情報だけを出すということ。結果的に"加害者"となってしまった齋藤選手への風当たりが強くなることは想像できます。当然、擁護したい気持ちはありますが、肯定も否定もするなと指示しました。週プロが「齋藤は悪くない」と断言してしまったら、変な想像を働かせる人たちが出てきて逆効果になる恐れがあります。だとしたら、何が起こったか事実を正確に伝え、判断は読者の方、一人ひとりに任せる。正しいことを掲載すればプロレスファンにはわかってもらえる。この段階では、それが最良の方法と考えたからです。

精神的にはかなり参っていたので、すべて的確な判断ができていたとは言い切れません。ただ、これ以上誰も傷ついてほしくないという一心でした。

15日(月)の夕方に本誌は校了。通常は月曜の18時頃から次号の編集会議をしていましたが、増刊号の作業があるため中止。各スタッフにページのリクエストだけもらって、台割をつくることにしました。そして夜10時過ぎに有明のNOAH事務所を訪問し、仲田龍GM(当時)に増刊号用のインタビュー。インタビュー中に龍さんが泣き崩れたときは、胸が苦しくなる思いでしたが、私は涙が出ませんでした。

深夜0時過ぎに帰社して、1時過ぎからフジテレビ『めざましテレビ』のインタビュー。増刊号制作の最中で時間がない中でも、依頼があったこうした取材を受けたのには理由があります。自分が断わると、誰かが代わりにプロレスマスコミ代表として喋る。人によってはあることないことを無責任に話す恐れもあり、それが嫌だったのです。物理的に不可能なもの以外は受けて、悪い方向に誘導されないように、言葉を発信しました。

この『めざましテレビ』のインタビューでも、「バックドロップという初歩的な技でなぜこんな事故が起きたのか?」という失礼な質問をされました。三沢さんのコンディション不良、首の負傷を押しながら闘っていたことへ誘導したいという意図が見えましたが、「プロレスに危険じゃない技なんてない。人が動く以上、いつだって事故の危険はある」と返しました。インタビューで嫌な思いをしつつ、その後は朝までに龍さんのインタビューを仕上げます。

サムライ中継と心温まる気づかい

16日(火)、この日は昼前からサムライTVのNOAH広島大会の収録でした。依頼を受けたときは、まともな仕事ができるとは思えなかったため、「しっかりできる自信がないので誰か他の人に当たってほしい」とお断りを入れました。しかし、サムライの寺内プロデューサーは「三沢さんの最後の試合なので、佐久間さん以外はありえないです。誰でもいいわけじゃないんです。喋れなかったら喋らなくてもいいのでお願いします」と折れません。その熱意に負け、解説を引き受けることにしました。

GHCタッグの試合は放送見送りとなりましたが、試合前インタビュー、そして最後の入場シーン、最後のコールシーンを流しました。最後のコールで三沢さんが手をあげている場面でスパルタンXがかかると、言葉にできない感情が込み上げてきて、カメラが回っているにもかかわらず涙が止まりませんでした。現実を受け止めないようにしていたのか、訃報を聞いてからこの瞬間まで涙が出ることはありませんでしたが、画面越しとはいえ、三沢さんの姿を見てしまったら、もうダメでした。……この後の記憶はまったくありません。あの瞬間はハッキリ覚えているのに、その後のことはまったく思い出せないのです。

17日(水)、夕方に増刊号が校了。13日に訃報を聞いてから、ノンストップで走り続けた日々がようやく終わりを迎えました。ホッとすると同時に何とも言えないさみしさが襲ってきます。抜け殻となった私に広告局のスタッフから「編集長、飲みに行こう」と誘いがありました。13日の夜からずっと起きているのに眠くならない。久しぶりに眠れるけど、このままだと眠れそうにないので、アルコールの力を借りて寝ようと思って飲みに行きました。

この席で、急きょ制作することになった増刊号でしたが、表周りの広告を入れることができたという報告を受けます。当初は「訃報なので」と広告出稿を自粛するとしていたサムライTVが、校了直前になって広告出稿を伝えてきたことを知らされました。

「サムライさんは追悼号に広告はちょっと…と最初は断わられて、事情が事情だからこっちもわかりましたって伝えてたんだよね。だけど、昨日の午後に担当者から『編集長にあそこまでしてもらったので我々の気持ちを誌面に入れたい』って電話があったんだよ」

表3に入ったサムライTVの広告がこちら。それは宣伝ではなく、三沢さんへの感謝のメッセージでした。

この広告を見せてもらい、その理由を聞き、疲れきっていた心が救われた思いでした。  

一瞬の癒しも束の間、私にとっての激動の日々はこれで終わったわけではありませんでした。

つづく  

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