マガジンのカバー画像

1996年からの私

32
週刊プロレス7代目編集長・佐久間一彦が、三沢光晴、小橋建太、髙山善廣らプロレスラーに学んだ日々の記録。
運営しているクリエイター

2020年3月の記事一覧

1996年からの私〜第3回(97年)800人に一人の逸材!?

喫茶店での面接。ありのままの自分を評価してもらう97年3月、福島での合宿を終えた私は「週刊プロレス」濱部良典編集長との面接のため、初めてベースボール・マガジン社を訪問。どこか社内の個室での面接になるのかと思いきや、爽やかに登場した濱部さんの第一声は「お昼食べた?」でした。 13時のアポだったため、食べていないことを告げると、プレヤデスという地下にある喫茶店に案内されました。濱部さんは常連らしく、慣れた様子でカルボナーラを注文。面接できている私はここで何を頼むのが正解なのか?

1996年からの私〜第4回(98年)デビュー前から武者修行。そして格闘技通信へ

叩き上げではなく海外武者修行1997年11月の全日本大学選手権を最後にレスリングの世界を引退。4月の内定以来、BBMとはまったくコンタクトをとっていなかったため、内定はなかったことになっていないかと心配で、引退と同時にすぐに編集部に電話をしました。 濱部編集長とコンタクトをとると、今後についての話は年が明けてからとのこと。4月のときはすぐにでもアルバイトに来てほしいと言っていたのに雲行きが怪しい。私が授業と部活に打ち込んでいる間に、別の有望株が現れたのか…と少々不安になった

1996年からの私〜第5回(98年)格闘技通信の日常

仕事はやればやるほど増える打ち出の小槌「格闘技通信」編集部で働き始めた私がやっていた仕事は、以下のような内容です。 まずは写真整理。当時はデジカメではなく、フィルムだったため、撮影した写真を大会ごと、試合ごとにファイリングしていきます。また、誌面で使用した写真を1号ごとにまとめて、再利用するときにすぐにわかるようにしておくことも大事な仕事でした。そして新聞のスクラップもあの時代ならではの仕事。現在はインターネットで検索すればすぐにニュースがでてきますが、当時はそれができなか

1996年からの私〜第6回(99年)まさかの帰還命令…そして週プロへ

やる前から拒否していたら何もできない「格闘技通信」編集部で次々とチャンスをもらい、編集・記者の仕事にも日に日に慣れていきました。このときは大学にも週にひとコマだけ通っていて、99年に無事に卒業。1年越しでベースボール・マガジン社(BBM)に入社することになります。当時のBBMは入社から1年は嘱託社員で、その後正社員になるというシステムがあり、私も例に倣いまずは嘱託社員として入社しました。 入社の際、格通や週プロが属する第二編集部の部長でもあった週プロの濱部編集長から、「入社

1996年からの私〜第7回(00年)人生を変えた高山善廣の言葉

うまくいかないとき、人に原因を求めないミレニアムなんちゃらとみんなが浮かれていた2000年。年が明けても私は相変わらず低空飛行を続けていました。さらに追い討ちをかけるように3月末には、人事部長から嘱託社員の継続を告げられます。1年で正社員になれると聞いていたのに話が違う。そもそも人事部長が替わっていたので、そんな話はしてないと言われて終わり。いろんなことがなかなかうまくいかず、完全に腐りかけていました。 そんなとき、週プロで「21世紀の21人」という企画をやることになりまし

1996年からの私〜第8回(01年)退社か? 残留か? 会社の奴隷にならない選択

タダ働き3年。もう1年続けるか高山選手への取材をきっかけにした意識改革、そしてNOAHの旗揚げにより、少しずつチャンスが増えていき、自信もついてきたなかで2001年を迎えました。 3月、前年と同じように会社からは当然のように嘱託社員継続の打診がきます。またしても人事部長が前年と替わっていたため、過去の話はリセットされています。当時のBBMの正社員と嘱託社員の大きな違いは退職金の有無と、休日出勤手当の有無。出張の際の手当も嘱託社員にはなかった気がします。週刊誌で働いていれば嫌

1996年からの私〜第9回(01~02年)編集長初体験。耳の不自由な方からの手紙

編集長体験で得た充実感ベースボール・マガジン社の正社員となり、さらなるステップアップを目指す私に大きなチャンスがめぐってきます。競技を問わず、注目選手をクローズアップする「スポーツアルバム」シリーズというMOOKが発足。その中でNOAH旗揚げ後、一気にプロレス界のキーマンとなってきた秋山準選手のアルバムをつくることになりました。 NOAHの担当は佐藤景さんでしたが、秋山選手の取材は主に私が担当していました。当時の秋山選手は大黒柱の小橋選手が欠場するなか、NOAHのトップに立