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アーティストご夫妻 岡田裕子さんと会田誠さん:クリエイティブ・ペアレンツのインタビュー 第16回(前半)

岡田さん、会田さんともに国内外の第一線で活躍されているアーティスト夫妻です。岡田さんは結婚、出産、子育てなど自ら体験し実感した事をテーマに制作し現代社会へ鋭いメッセージを投げかけています。会田さんも表現の限界に挑戦し続けるような痛烈な批評性を含む作品と発言で多くの支持を集めています。それぞれが独立してアーティストとして活躍されると同時に、パートナーシップをプライベートだけでなくアート活動の中でも持ち、協働を続けられています。また、息子さんも一緒に家族で結成したユニット「会田家」の活動と在り方も、アート界に一石を投じるもので、家族やパートナーシップを考えていくうえで多様な可能性を示しています。

おふたりのパートナーシップの始まり、そのなかでのお子さんの存在や、親になってゆく中で変わっていったことを中心に今週はおふたりのインタビュー前半をお届けします。

− まずお子さんを紹介していただけますか?

O: 息子は19歳で寅次郎と言います。

− 名前は親からの初めてのギフトと言われますが、今までのインタビューでもそれぞれの親御さんの子どもへの思いがあります。名前の由来を教えてもらえますか?

A:はい。僕が決めたんで。正直言ってかなり適当です。

なんとなく昔ながらの名前が良いな〜と思って。ふと吉田松陰の幼名が確か寅次郎だと思って、多分これは次男につけられる名前かもしれませんが、長男が龍太郎で、弟が寅次郎になるのだと思いますがそういうことは無視して、「男はつらいよ」の寅次郎とダブルだとちょうど良い日本男子になるのではないかと思って提案してみたら通っちゃって・・・

O: その前までのがひどくて・・・

A: 亀治郎とか

O: 会田さんが名前は決めて良いよと話していたのですが、自分が好きな偉人の人の名にしたかったようなのですが、それまでの候補があまりにひどいといというか厳つい名前だったりして、呼ぶのも恥ずかしい様な・・

だから寅次郎で手を打とうと思ったんです。

− かつていた二人の人物のイメージを合わせたということですか?

A:そうですね。 松陰は勉強熱心でシリアスで死刑にされてしまう、男はつらいよの寅さんはぷらぷら放浪していて他人に迷惑かけている娯楽映画の主人公、二つ合わせるとちょうど良いかな〜と思いまして。この中間ということは、普通の人だから良いかと思って。

− まず妊娠を知ったとき、赤ちゃんがお腹にいると知った時はどんな感じでしたか?

O: 二人ともちょうど同じ時期にACCの派遣でニューヨークでバラバラの場所ですが、暮らしていました。住まいも近所だったのです。このプログラムが終わるぐらいにお付き合いを始めて、帰国する直前に妊娠に気がつきました。

どうしようかな〜、さもありなんと思って、海外に住んで居て現実感が薄かったのか、あまり困ったな〜とも思わず大変だとも思わなかったけど、これからまた新しいことが色々あるんだろうなという感じでした。

− 男性としてお子さんを授かったことを会田さんはどう思われましたか?

A :そろそろ年貢の納め時かなという感じで。もう十分に中年にもさしかかっていた頃ですし、まあこれくらいのタイミングかなと思いました。

O: 会田さんと私は、こういう性格だから当時エッ!結婚、子ども?周りから驚かれて、あんたたち子育てできるの?というような・・・ 

自分はむしろ子どもがいた方が二人が良い関係で居られると思っていました。

普通に一対一でお付き合いしていても長持ちするかよくわからなかった(笑)。長いスパンでお付き合いしていくには子どもがいて家族となっていく方がよいのかな〜と思ったりしました。

− 私も結婚はしていたのですが、夫が東京で私がロンドンで、その後夫がニューヨークに移ってその時妊娠したので、あ〜このタイミングなのかと思いました。子どもが選んでやってくるところがあると思ったりしますし・・

O: そうですよね。

めまぐるしい変化と目の前のことに精一杯になった新婚生活

− 妊娠されている間は、日本で主に暮らされてましたか?

O: そうですね。生まれるまでの6ヶ月ぐらいは日本でした

− 妊娠は初めてだと色々なことを調べたり思ったりすると思いますが、どのように二人で過ごされましたか?

O: 帰国してすぐは二人で一緒に暮らしていなかったのです。アメリカに移る時に会田さんは日本のベースを全て引き払っていたので

 

A:、帰国した時にはまず知り合いが所有する埼玉の草加の雑居ビルに僕は転がり込んで、

O: とにかく住むところがなくて、知り合いの人が持っている、それも雑居ビルにある何年も使われていない一室を貸してもらって。ビルの管理人の仕事をすればタダで貸してやるというようなことで、暮らし始めました。子どもが生まれてからは、隣の駅にアパートを借りて、僕はその雑居ビルの部屋は、アトリエとして作業場にしました。

O : 親にも誰にも何も説明してなくて、お付き合いしてますということも話していなかったので、結婚と子どもが生まれたというようなめまぐるしい変化を周りに伝えていくのが大変でした。いきなり妊娠で結婚で親も大ビックリだったと思うし、住むところをまた探さないといけないこととか、そんなことで目の前のことをクリアしていくことで精一杯でした。

A: 僕は、若手のアーティストとかには、できちゃった婚をお勧めしてますがね。あまり計画を立てずに。子どもができていないのに結婚するとかは不自然で、妊娠してから結婚すれば良いのだというようなことを説いて回っていますけど。

あまり実行している人はいませんが。

O: 私は、あまりお勧めしない。なぜかというと、思い出しましたが、すごく大変だったんですよ。アメリカから部屋引き払って作品担いで飛行機に乗って帰国するから始まり引っ越し引っ越しで、ものすごくハードで。最初は人にも妊娠も伝えてなかったから、なんとなくゆるゆると寝ている訳にも行かない気分もあり。今から思うと無茶をしたかなというのがあって、それで流産とかしてしまったら大変なことだったので、できちゃった結婚は、あらできちゃったビックリぐらいはむしろおめでたいことだと思うけど、結婚出産はたくさんのことが起こり忙しいので、準備がないと母体に良くないんじゃないかな。

その時は若かったし大丈夫だろうと思ってやっていたのですが、一段落してみると、もし誰かがができちゃった結婚したら「身体に気をつけて、忙しいだろうけど無理しないでね」と言うかもしれない。私は無謀なぐらい動き回っていたので、無事に生まれてよかったと思います。

世界最速で展覧会デビュー 「会田誠+岡田裕子+会田寅次郎 親子三人展」

− お腹の中に赤ちゃんがいたときに、どんなことを二人で話されてましたか?

O: 最初は会田さんがお腹の子は娘だと思い込んでいた。幾つもの娘の名前候補を筆で半紙に書いたものをアトリエの壁に張っていたのですが、あるとき検査で男の子とわかって、その半紙をはがしていました。お腹の中にいるときに何か考えたかな〜

A: 名前は男の子だと分かってから考えました

A: ま〜子どもが産まれてもなんとかなるだろう、経済的にはギリギリなんとかなるだろう、ぐらいに気軽に思ってました。作品も多少売れ始めていたところだったので、なんとかなりました。もう少し前だったら経済的にまずいということもあったでしょうが。

O: 横浜トリエンナーレにも決まったときでしたよね。

O:帰国後、居酒屋みたいなところで二人でミーティングしたのを覚えています。赤ちゃんは生まれてから3ヶ月ぐらいで外に連れ出せるようだからその時期を狙って世界最速展覧会デビューさせよう、生まれて3ヶ月で展覧会ができるようにミズマギャラリーにお願いして親子3人展をしようと相談しました。そのために息子の体を鍛えるためにだんだんと外気浴させたり。

A:僕が帰国したら、帰国成果の展覧会をミヅマアートギャラリーで開くことを言われていたのですが、なんか作品もたまらず、乗り気もしなくて・・・ふと生まれる子どもと家族で三人展なら面白くできるかなと思って、生まれる前から家族3人展はぼんやりと計画してたんです。それは2001年で、つまり9月11日にワールドトレードセンターでテロ事件が発生し、展示は10月ぐらいでつまりワールドトレードセンターのテロの直後となりました。だから息子の作品と称しているものは、テレビのテロの映像を絡めたもので。生まれた息子が夜、9.11の第一報が入ったときに、暗い部屋で、見えているのかどうかはよくわかりませんが、ブラウン管をしっかりとずっと見ていたので、ここから発想しました。

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[会田寅次郎, 作品1, 2001, キャンバス、イーゼル、ビデオ, ©︎AIDA Torajiro]

O: ニューヨークで授かった子で、帰国して産んだけれど、7月4日生まれ、それはちょうどアメリカの独立記念日で・・・日本で産まれてすぐにニューヨークで大規模テロがあり、こんなこともあるんだなという気持ちです。

A: ワールドトレードセンターには、オープンスタジオがあって、アーティストが部屋を借りていたこともあって、二人で見に行ったこともあった。

O: 80階あたりに市がサポートするアーティストの共同スタジオがあったんです、そこに訪問しました。

A: テロの当日、早起きしてそこで制作していたアーティストが一人亡くなったらしい。他のアーティストは起きるのが遅いから助かったけれど。

場所や雰囲気がよくわかっていたので、現場を知らないで報道を見ているよりは、そこにいて目撃した様な疑似体験のように強く感じました。

O: ワールドトレードセンターは地下に美味しいデリとかあってビル自体は立派だけれど日常生活も感じられる場所でした。下に降りれば観光客ではない普通の市民が生活していた。

A: 息子の展示作品は「作品1」です。ワールドトレードセンターに一機めが突っ込む瞬間の画像が、動かずずっと流れているというもの。

O: 飛行機がビルに突っ込むほんの直前の瞬間です。

A: その前に白紙の200号のキャンパスがイーゼルに立てかけられている。タイトルは「無題」です。少しキザっぽいですけれど、未来はまだ白紙というか、まだ描かれていない。そしてその未来は暗い予感もするのですが。実際あいつが生まれてからのこの19年間は、少なくとも日本の社会や経済の状態は、暗い方向から修正されることはあまりないですよね。

僕は「新宿御苑大改造計画」という大きな黒板の作品を展示しました。ニューヨークで暇つぶしに考えていたことを黒板に描いたもので、だからこれはニューヨーク生まれなんです。

新宿御苑大改造計画-2001

[会田誠, 新宿御苑大改造計画, 2001, シナベニヤ、黒板塗料、チョーク, 182×272.4cm, 撮影:長塚秀人, (c) AIDA Makoto, Courtesy of Mizuma Art Gallery]

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[岡田裕子, ピーナッツドレスの女, 2001, ミクスト・メディア, 174.5×115.5cm, 高橋龍太郎コレクション, 撮影:長塚秀人, (c) OKADA Hiroko, Courtesy of Mizuma Art Gallery]

O: 私はできちゃった婚をテーマにした作品を展示しました。その時は写真のフォトコラージュした作品を結構作っていて。生まれたての寅次郎のヌードをたくさん撮っていたのです。その写真がいっぱいコラージュで重ねられてウエディングドレスのような形になっている。できちゃった婚のウエディングドレスをピーナツドレスというのですが、自分のセルフポートレートに合わせて息子の写真をドレスの形にコラージュし、できちゃった婚と出産をテーマにした「ピーナッツドレスの女」という作品です。

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[「会田誠・岡田(会田)裕子・会田寅次郎 三人展」(ミヅマアートギャラリー、東京)のDM, 2001年, ©︎AIDA Family]

O: その展覧会タイトルは、「会田誠+岡田裕子+会田寅次郎 親子三人展」でした。

また、子どもが生まれると一般的に誕生を知らせるハガキを出すじゃないですか。私は気恥ずかしくてとても出す気にはなれないのですが、三人展のDMは、わざと息子の写真をメインに、新しい家族が仲間入りしましたというメッセージを添えて、よくある赤ちゃん誕生のお知らせハガキの様にデザインしてつくりました。

A: 家族三人展は、この1回限りと思っていましたが、1年後くらいに「 7th 北九州ビエンナーレ Art for Sale アートと経済の恋愛学」からも家族三人で参加してほしいと呼ばれちゃったので、一回の冗談のようなつもりだったんですが、そこでまたやりました。まだ幼かった子どもとともに美術館の中に家族が引っ越ししてきたというようなスタイルでやりました。

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[展示風景:「7th 北九州ビエンナーレ:ART FOR SALE~アートと経済の恋愛学」北九州市立美術館、福岡、2002-03, 撮影:山本糾, 写真提供:北九州市立美術館, ©︎AIDA Family]

O: その頃から「会田家」と名乗るようになったと思います。

A: それから少しインターバルがあいて、もう会田家はないだろうと思っていたら、息子が中学の時、東京都現代美術館の「大人と子どもが考えるーここは誰の場所?」展に会田家で参加しませんかと言われて。夏休み恒例の子ども向けの展覧会だけど、今回は大人にも伝わるものにしたいという趣旨だと聞いて。参加には多少悩んだ、息子も中学生になっていて、自意識も芽生えて難しい年頃だと思ったし。

O: 一般中学生を簡単に展覧会に出して良いのか、とも思いましたし、息子に相談しました。会田家というユニットで一緒にやるのはどうだろうかと。本人からはOKがでました。もうその頃に息子は、プログラミングの大きな祭典の関連トークショーなどで人前で話したりという経験もしていて。ハッカソンで大人とチームを組んだりもしていました。コンピューターが好きだということが発展して、年齢が異なる人たちとその分野で交流する様にもなっていました。だから、展覧会も本人の同意があれば良いかと思い息子に声をかけました。もともとは美術館からのオファーで「会田家でやりませんか」と提案があり、私たちの発案ではなかったんです。

A: さすがに今後はやめておきたいですがね。もし次に息子と仕事をするとしたら、僕がコンピューターを使う作品やインスタレーションを作る時に、その技術者としてお金を払って依頼することはあるかもしれません。

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[展示風景:「おとなもこどもも考える ここはだれの場所?」東京都現代美術館, 2015,  撮影:宮島径, ©︎AIDA Family]

アーティスト同士でパートナーになっても良いし、ましてや子どもをつくることが無理なことだという風潮を変えたい

O: アーティスト同士で結婚するとか、子どもができるとかは、その当時は、女性アーティストとして致命傷だと考えられていました。今はアーティスト夫婦も増えたとも思うのですが、私なんか何人にも結婚出産当初、美術関係者に「もう引退するんだね。」とも言われました。「子どもができたら、子供が作品なんだから作品をつくる必要ないね。」とまで言われたり。こんな文化的な人たちがそういうこと言うんだなと思って、むしろそれに反発するように旺盛に自分たちから出産結婚や家族であることを作品や展覧会でアピールしていきました。アーティスト同士でパートナーになっても良いし、ましてや子どもをつくることが無理なことだという風潮を変えたいということもあった。私たちの性格がしっかりしていないタイプだということは周りはわかっているので、こんな人間でもできるんだよ、家族になっていけるんだよ、と。妊娠出産を機にけっこう夫婦で取材も受けましたし、「幼児と一緒に美術館に行こう」というテーマの連載を女性誌で持ったりして、積極的に世間に露出していきました。

− すごく大事なことですよね。

ドキュメンタやベニスビエンナーレでも取り上げられている韓国の女性アーティストも結婚しているとか子どもがいるとか、口外しないほうが良いとすごく周りの人に言われたと話してました。キュレーターでも結婚はしていても、子どもを持っている人は日本では少ないですよね。大変でも別な視点を持つことができて、人生を豊かにすると思いますが。

お子さんが生まれて変わったことはありますか?

子どもができてからは社会性が強い作品も増え、若手アーティストと交流し、支え、助けるように

A: 意識的に何かを変えてとかは無くて、独身の時と同じようにやっていると思いますが、発表して少し経ってみると子どもができてから、21世紀以降ということになりますが、作品は社会性が強めの作品が増えてきたというか。え〜、別な言い方をするとおっさんぽい作品が増えてきて、まあ、独身の時は一匹狼のチンピラみたいな作品だったのが、組長になるみたいな、そんなゆっくりとした変化になっていったと思っています。

O: 会田さんは、確かに、私から見ても、結婚する前は自分と自分の作品のことしか考えていないような印象でした。子どもができて親になってから、年下の表現者への面倒見が良くなった。若手を育てる、とまでは行かないかもしれないけど、彼らと交流して支えて助けるようなところがすごく出てきた。家には、若手アーティストが良く訪ねて来る様になりました。当時、神保町の美学校で講師を始めたのもあって。

A: そう、美学校で教えることもこのタイミングでした。

僕は在学中から日本の芸大にアンチな考えはあったのですが、いわゆる美大、芸大ではなくオルタナティブな歴史がある美学校からの依頼であることが、これはちょっと面白いかもと思いました。美大に対する敵対心をここで発揮できるかもなんて思ったことは確かです。

O: その当時は、お腹をすかしてやってくる若手アーティストたちが家にご飯を食べたり飲みにに来ることが続いて。そういう賑やかな家庭に憧れていたこともあったのですが、うちもお金はなかったけれどどうやったらこの子たちのお腹を安上がりにいっぱいにしてあげられるかと、給食のおばさんにのように献立考えたり料理するのは楽しかったです。

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[会田誠, 寅次郎 2歳4ヶ月(「みんなといっしょ」シリーズより), 2003, 模造紙、油性マーカー、水彩絵具, 150×110cm, 撮影:木奥恵三, ©︎AIDA Makoto]

岡田さんは、女性アーティストが結婚そして出産する事が致命傷とまで言われる風潮を変えるように積極的にアピールしてきました。代表作の一つ「俺の産んだ子」は、男性が出産するまでを描いています。妊娠から出産までの幾つもの変化とそれに伴う不具合な出来事をあえて男性が経験する事で注目されるように意図されているこの作品は、女性としては身にせまって感じるものがあります。インタビューの最中も大変なことをゆるやかに笑いとユーモアを含めて表現するクレバーさと柔軟さ、そして忍耐強さを感じました。会田さんは子どもが生まれてからは、一匹狼から社会性を強めた作品に変わり、さらに若手のアーティストを支持していくようになったといいます。多数の人の手作業と長時間かけての共同作品、「MONUMENNT FOR NOTHING」も会田さんのこのような変化ゆえに作られ続けているように思えます。これだけ鮮烈な作品を作り続け、活動を続けてきた岡田さん、会田さんがお子さんを持ったことで、さらに活動のあり方や考えを広げられていったことは、いまのアーティストたちクリエイターたちへのひとつの大きな示唆となるのではないでしょうか。

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"連載『クリエイティブ・ペアレントへのインタビュー』シリーズ"

子どもがクリエイティブに生きるには、

クリエイティブな生き様に触れることが一番です。

しかし、これは子育てだけでなく、

わたしたち、親やすべての世代のひとに言えることです。

クリエイティブな生き様にふれることで、

こんな道、こんな生き方があるんだ

と励まされたり、確信をつよめてさらに自分の道を歩いていけます。

このnoteでは週末を中心に、いろいろなクリエイティブ・ペアレントの方のインタビューを連載しています。


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