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『新吉原遊郭区画図』を自作してみました。(中編)

まずはじめに、ここまで一緒に地図を調べてくださったサキチさん、調べる機会をくださった先生と、翻刻に御協力頂いた皆々様に感謝を申し上げます。

前回の記事で、「江戸二丁目は、江戸二丁目・伏見町・境町(堺町)の三つの通り(区画)が『江戸二丁目』である」と書きました。
いまネット検索や書籍などで探すことのできる「江戸時代の新吉原遊郭図」は、時代による街並みや区画の移り変わりを無視しているものがあります。
大きく変わった区画は、前編①②で触れてきた江戸二丁目になります。
ほかは京町二丁目が『新町→京町二丁目』表記に変わったほかは、町ごと消滅したという例は、現時点で見つけられませんでした。

■元吉原時代(元和3年から明暦3年)

慶長十年(1605)幕府に遊郭設置願いをだしていた庄司甚右ヱ門が同十七年(1612)にようやく許可を得て、元和4年に日本橋の葦地を埋め立てた元吉原が営業開始されました。

このとき幕府が提示した五つの条件があります。

①けいせい町の外、傾城屋商賣いたすべからず。并傾城町囲の外何方より雇來候共、先々えけいせい遣候事、向後一切停止たるべき事
(幕府が許可した遊郭地と遊女屋(けいせい町・傾城屋)以外は売春業禁止。遊郭地を囲い、そこから遊女を街中にだしてはならない)

②けいせい買遊ひ候もの、一日一夜より長留いたす間敷事
(遊客は一晩のみ宿泊可、それより長く泊まるのは禁止)

③けいせいの衣類總縫金銀の摺箔等、一切着させ申間敷候。何地ても紺屋染を用ひ可申事
(遊女の衣類は金銀の糸や生地や装飾を使うのは禁止、どんな布地でも紺染めを着るように)

④けいせい町、家作普請等美麗に致すべからず。町役等は江戸町の格式の通、急度相勤可申事
(遊郭地と遊女屋は派手派手しいものにしてはならない、名主などの町役は江戸町内の格式と同じものにすること)

⑤武士・商人体の者に不限、出所慥ならず不審成者致徘徊候はゞ、住所致吟味、彌不審に相見候はゞ、
(遊客は武士・商人の姿をしたものに限らず、不審なものが徘徊していたら住所を聞くこと※身分によって衣服や住むところがわかれているので))

これは筆者の推測ですが、このなかで①の条件を満たすために元吉原と新吉原は市街から離れた辺鄙な場所に造設した可能性があります。また、遊郭地はだいたい市街地ではなく、すこし離れた場所に新設されるケースが多いです。反対に私娼は市街地で営業していますので、これを町の風紀が乱れるとか許可を得ていない遊女だということで罰せられて、『奴女郎』という身分におとされ年季3年の給料なしの刑で新吉原などに送られていました。

江戸二丁目のまえは『けん蔵寺町』だった時代があります。

※寛永版江戸図より一部拡大
新吉原略説并元吉原町起立 第1帖 国会図書館デジタルコレクション

この後、明暦期の元吉原図では江戸二丁目になっています。

新吉原略説并元吉原町起立 第1帖
国会図書館デジタルコレクションより

■新吉原時代(明暦4年から)

そのご、明暦の火事を気に日本橋にあった元吉原から浅草の新吉原に引っ越しをします。このとき、元吉原では各町にあった揚屋を『揚屋町』という区画を新たにつくって、ひとつの町にまとめています。

■境町(堺町)、伏見町の設置

寛文8年、江戸二丁目の町名主と町人たちが幕府に「最近、茶屋と称して非合法の売春業を営んでいる者たちがいる。その者たちのせいで我々のように幕府の許可を得て合法的に売春業を営んでいる者たちが不利益を被っている。よって、非合法の売春業者を訴え」たところ、その「茶屋の者と遊女たち70余人から新吉原に来たいと願い出があったので、我々は慈悲をもって彼らを受けいれる」という経緯から、江戸二丁目にもとからあった「見世の背側を削って」境町、伏見町という名前の小見世から中見世が集まった区域が新設されたそうです。
このときの江戸二丁目の名主や町人が関西の伏見町や堺町から移ってきた遊女屋説と、伏見町や堺町の出身やゆかりのある者が多かったからつけた説、また元吉原にも堺町があったころからそこから移ってきた茶屋だったから堺町説などがあります。

*以上『吉原由緒書』より。筆者による意訳及び補足あり
注:ここは『茶屋』ではなく『湯女』とすることが多いようです

元吉原の項で触れた奴女郎の刑ですが、寛文8年当時も存在していたようですが、このとき境町と伏見町に引っ越してきた彼女たちがどのような身分できたのかは不明です。

■境町は新吉原のどこにあったのか

■吉原細見から探してみよう


では、正確には境町はどこにあったのでしょうか?吉原細見から年代を追って場所を確認していきます。

元文4年 国会図書館デジタルコレクション より
元文5年 国会図書館デジタルコレクション より

元文年間は、江戸二丁目と角町(角丁)の間に『さかいまち』と書かれています。

延享2年 国会図書館デジタルコレクション
延享2年 国会図書館デジタルコレクション

延享2年のものは地図いりです、往時を想像するのにたいへん助かります。

宝暦12年 国会図書館デジタルコレクション

この間に明和9年の火事で境町(堺町)は消滅したといわれています。

確かに下の、上から安永8年・10年の吉原細見から消えています。

安永8 国会図書館デジタルコレクション
安永10 国会図書館デジタルコレクション

しかし、なぜか安永4年の吉原細見に載ってるんですよね…謎ですね。

■今度は地図から境町(堺町)を探してみよう

延享2年 国会図書館デジタルコレクション

再び延享2年の吉原細見図に戻り、境町の位置を確認します。
ほかの年代の吉原細見と同じく、江戸二丁目と角町の間に位置しています。

ここで見てほしいのが弘化3年の沽券図と4年の遊郭図です。

吉原弘化四年図 国会図書館デジタルコレクション

まず、店舗や下水がはっきり描かれている弘化4年の図をみてください。
江戸二丁目と角町の間に、町割り下水がはっきり描かれています。

新吉原之図 国会図書館デジタルコレクション
江戸二丁目と角町の一部を拡大

町割り下水の上部のほうを見て頂きたいですけど、

新吉原之図 国会図書館デジタルコレクション
江戸二丁目と角町の一部を拡大

もうすこし拡大してみますね。

新吉原之図 国会図書館デジタルコレクション
江戸二丁目と角町の一部を拡大

『境町跡』の文字が見えますでしょうか・・・此処です!!
これを見つけたときはとても嬉しかったので、つい無駄に拡大を繰り返してしまいました。たいへん失礼致しました。

■まとめ

土中を深く掘る掘割下水は場所を変えることはないそうなので、おそらくここで間違いないと思われます。
図上、各町通りに門を付けました。これは当時の浮世絵には仲之町通りと河岸通りに面した各町通りの出入口には門が描かれているからです。

参考 寛政八年、弘化年間の吉原図
すべて国会図書館デジタルコレクション


参考文献

江戸の下水道 栗田 彰  青蛙房
江戸吉原図聚  三谷一馬  中公文庫
郷土士の歴史探求記事 その1 江戸の遊廓「吉原」を開いた庄司甚右衛門の謎


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