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花束を紡ぐ日々

先日、NHKの朝の情報番組「あさイチ」に歌手のあいみょんが出演していた。
朝の連続テレビ小説「らんまん」の主題歌である「愛の花」についてインタビューを受けていて、私はそれを流し見しながら息子の幼稚園の仕度をしていた。
インタビュアーから「あいみょんさんの考える「愛の花」を描いてみてください」という、無茶振りが入った。「ハートがいっぱいついてる花でも描くのかな?」と適当に考えながら仕度を進める私。しかし、あいみょんの描いた花は私の安直すぎる予想を遥かに超えていた。

彼女はさらさらと、慣れた手つきでピカソの「花束を持つ手」の簡単な模写を描いたのだ。そして、次のような主旨の話を続けた。
「私にとって愛の花は特定の花とかではないんです。花の種類は重要ではない。愛は一人では成立しなくて、他の誰かに与えることで成立すると思うんです。だから、誰かに花を渡すことで初めて、その花は愛の花になる。だから私のイメージでは愛の花は、誰かの手の中にある花束なんです」
私はこの回答に心底、感動した。あいみょんの造形の深さはもちろん、彼女のものごとの捉え方が、まさに彼女を一流アーティストたらしめているのだと改めて感じた。と同時に、私の心の中に立ち込めていた暗雲に、一筋の光が差し込んできた気がした。

私は二年前に、夫の仕事の都合で故郷から遠く離れた海辺の街に引っ越してきた。激務で不在がちの夫を頼れず、知り合いもいない中、責任の重い仕事をこなしながら育児に家事に追われた私の精神は消耗していき、とうとう医師の診断で休職、昨年末には仕事を退職した。現在は育児と家事を淡々とこなす日々を送っている。といっても、育児も家事も決して楽ではなく、しっかりやろうとするとあっという間に時間は過ぎ、一日のうち自由に使える時間はかなり限られる。その限られた時間を有効に使いたいと思いつつも、それは一日の疲れが溜まった夜の時間。集中力もあまり残っておらず、もぬけの殻みたいな顔でテレビをつけるか、多くの場合、子供と一緒に寝落ちてしまうのがオチだ。

そんなわけで、ワークライフバランスの悩みからは解放されたものの、今度は家のことをこなすだけで淡々と日々が過ぎていくやるせなさが、私の心に暗い影を落とした。自分は社会の何の役にも立てていない、家庭にお金も入れられていない、ただ家という狭い空間で日々を消耗しているだけの存在になってしまったのではないか、と。そんな存在として、この先の人生過ごしていくだけで果たして良いのか、と。そんな漠然とした気持ちがどんどんと雨雲のように私の心を覆っていく感覚があった。

でも、果たしてそうだろうか。いや、違う。私は日々、せっせと息子と夫のために「愛の花束」を紡いでいるのではないだろうか。家族の「当たり前の明日」を作るために、毎日家を綺麗に掃除し、ご飯を作り、子供との時間を大切に過ごし、夫の仕事の話を聞く。そんな「当たり前」を通して、子供と夫が明日もまた頑張ろうと思えるように、「いってらっしゃい」の言葉とともに愛の花束を手渡しているのではないか。あいみょんのインタビューを聞きながら、そんな気持ちになった。少しだけ、自分の日常が誇らしく思えた。

私の日々は淡々としている。周りから見たらそれは取るに足らないような日常かもしれない。けれど、毎日大切な人たちのために愛の花束を紡いでいる、かけがえのない日常でもある。もう少し落ち着いたら、また仕事を始めるかもしれない。心躍るような、熱中できるものとの出逢いがあるかもしれない。まだまだ長い人生、この先何があるかは分からない。でも何年後かに今を振り返ったとき、「あのとき、自分は毎日たくさんの愛の花束を紡いでいたな」と誇れる日々をこれから送っていきたいと思う。

#創作大賞2023 #エッセイ部門

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