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小説 ラブ・ダイヤグラム⑤ 「戦闘服」とバスの群れ

OL時代、
私はいつも一日二回お風呂に入っていた。

仕事後に家に帰ってすぐ、
湯船で湯に浸かって、朝起きたらすぐに
シャワーだけ浴びるのだ。

夜お風呂に入るのは
別に普通な事なのだろうけど、
朝のシャワー…
これをしないと私は不安で仕方がなかった。


整った気にならない。
変な寝癖が付いてやしないか、
寝汗をかいてやしないか、

目ヤニや涎の跡でも付いてや
しないかと思うと心配すぎて
いつの間にやら始めた習慣だった。

仕事場では一分の隙だって見せたくはなかった。
完璧に容姿を仕上げておきたかった。


いつも仕事終わりには、
遊び歩いて夜更かししているって言うのに。

その習慣のせいで毎朝
かなりの早起きをせねばならないって言うのは
正直楽なものでは無かったけど、
それをやらずに後で職場に来てから
不安になるより余程マシだった。


気分が乗ってくれるって言うのも大事な所だ。
化粧や髪を仕上げ、ブランド物の
素敵な高い下着を身に着ける。

…下着はすごく大事。
高くて良い物を付けるとバシッと気合が入る。
服を脱いだって私は素敵なんだ、
どっからでも来いみたいな自信が漲る。


会社を退職したその日、

今まで必死になってリボ払いで購入した
コートもヒールもバッグもスカートもシャツも、
身につけたとたんに、彼が小馬鹿にした私の姿へと
変えてしまうのに腹が立って
ゴミ袋に根こそぎ叩き込んでしまった。

けど、この高級下着のコレクション達だけは、
どうしても捨てる事が出来なかった。


戦闘服だったから。
何だかんだ、トップスがコレで
アンダーがコレなどと
色々と試行錯誤しながら羽織ってみながらも、
結局のところ、この子たちが一番、
女としての私に自信を与えてくれるからだ。


散々…悩みに悩んだ末…
私は会社説明会に出向くにあたって、
箪笥最上段に静かに眠る
そんなコレクションのうちの一組を身に着けた。

とてもじゃあないけど、
普段の過激な運動や汗を伴うダンプの仕事には
この子らを身に着けては行けない。
…繊細なのだ、この子達は。

いつもは安く買ったスポーツタイプの奴なので、
コレクションの中の物を身に着けるのは
久しぶりだった。


鏡に映る自分の下着姿を見て、
自然と「うん。」と、納得の声が出た。


勝負所だ。
バスの仕事がどんなかなんて、
全然ピンとも来てないし
話に流されて、今日出向くようなものだけど…


なんだか無性に、あのおじさん、
山上さんにだけには弱みを晒したくないし、
負けたくも無かった。
少しでも強い自分で居たかった、今日は。


ナチュラルな化粧だけ目元に施して、
幸い捨てずに取ってあった
前にいつ着たかも分からない、
クリーニング屋さんの入れ物に
入ったまんまのリクルートスーツに袖を通すと、
パンプスをつっかけて家を出た。

会社説明会は本社ビルでは無く、
バスの営業所でやるらしい。

…小野原営業所…

携帯で場所を確認すると、海から道路を挟んだ反対側にあるような営業所らしかった。


流石にスカート姿でレーシーなバイクに
跨る気にもなれず、止む無く電車、
バスと面倒に乗り継いで向かう。

バスの営業所なだけあってか、
駅からのバスの本数も多かった。
「小野原車庫行き」…終点が私の目的地だ。



正直言うと、私は今までほとんど
バスに乗った事が無い。

学生時代は自転車通学だったし、
大学社会人になってからは
都内なもので電車移動しかしていなかった。

いつだったか……電車が止まったから
振り替え輸送だと言われ、
ワケの分からないままバスに乗って以来だと思う。

まるで料金システムとかが分からないので、
前の人がどう乗っているか、
ガッツリ見たうえで、真似をしながら乗車する。


「どうぞ。おはようございます」


運転手は結構年配の人だった。
これから御社の会社説明会に伺います、
宜しく!!……とか
返すべきか少しだけ悩んだけど、
結局会釈だけして車内に乗り込んだ。

改めて、私はバスに馴染みが無い事を思い知る。
私がこの仕事に就こうかどうしようかなんて
悩んでるのが、凄く妙な事に思えてきて
仕方が無かった。


まあ、それを言い出したらダンプの運転手だって、始めるまでは一切、私の今まで想定していなかった人生なわけで、そこに別に違いなんて在りはしないのだけど、

それにしても……どうにも現実味が湧いてこない。

専門的すぎる気がするんだ、バスの運転手って。
皆の生活に必要な、身近な仕事の筈なのに、
どこか特殊と言うか……

電車や飛行機の運転手とそう
イメージの違いが無い気がする。
自分がそれを運転するとは
全然考えもしない……そういう仕事。


バスに揺られながら、不思議な気分だった。
どんどん自分史上未踏の場所へと
連れていかれている。

今更そういう事が怖いとは
感じないものの、少しだけ心細い。
これから向かう先に私を知る人も、
そして頼れる人も誰も居ないのが。

小野原の営業所は、思った以上に大きな所だった。
バス停の奥に広がる停車場には何十台もの、
見た事のある色合いをした
バスが所狭しと並んでいた。

辺りに高い建物が無いので、
夏の雲に彩られた青い空が
バスたちの上に広がっていた。妙に壮観だった。

静まり返っている車庫を、
車の間を抜ける様にして進んでいくと、
漸く一棟の建物が目に入った。


真四角をした三階建ての建物。
上からデカデカと、交通安全のスローガンの
垂れ幕が下がっていて、その下の看板には
「緑根バス 小野原営業所」と書かれていた。

ココだ。来てしまった、本当に。

つい立ち止まり、軽く深呼吸してから
入ろうかと構えていると、
ふと営業所二階の、窓の所に人影が見えた。
明らかにこちらの方を見ているので目を凝らすと、知っている顔だった。

私が気付くと窓辺から消えて、
しばらくすると一階の看板の横の自動ドアから
その人はやってきた。


「おはようございます!!」


相変わらずの凄い声量……山上さんだった。
満面の笑みで、初めて会った時のように、
後ろ手に手を組みながらやってきた。


「お、おはようございます!!
すいません、早めに着いてしまいまして…」

「30分前!!!素晴らしい!!!」

「あまりバスを利用した事が無くて…
念の為早めに…」

「まあアタシは
一時間前に来てましたから!
全然大丈夫!!!」


ニコニコとはしているものの、
どう考えても山上さんの口ぶりは
「お前さんの30分前には来て待ってたぞ!」
としか聞こえない…
イヤな汗がブワッと額に沸いた。

正解……一時間前って事!?早くない!?
…いやもしかするとこの業界では常識なんだろうか…
よく分からないけど、何にせよ謝っておいた方がよさそうだ。


「すいません…お待たせしてしまったようで……」

「まあまあ!!中へどうぞ!!!」


私がこの山上さんを、どこかおっかない人に
感じてしまう理由が分かってきた。
早い話、良くも悪くも率直な人なんだ。
今日の事にしたってそうだ。

遅れてきたわけじゃないし別に怒って無いよ!
でもちょっと気になったから、
伝えてはおくね!!!

…みたいな、心に引っかかったことは
明け透けにしっかりと口に出して、
相手に伝えてくるのだ。

よく言えば裏表のない人だけど、
悪く言うと一言多いとでも言うか何と言うか…


そんな山上さんに連れられて入口に進むと、
外の静寂とは正反対の、
鉄火場のごとき喧騒に営業所は包まれていた。

飛び交う会話の合間にも
無線の連絡がひっきりなしに鳴っていて、
とんでもなく忙しそうな様子だった。


「あー了解!!
そのまま小野原駅で待機しといて!!
ゴメン小田さん!
点呼ちょっと待っててくれる!?」

「おいおいー!俺もう10分は待ってんだぞ」

「一発出ちゃってさ!!バタバタしてんだ!
ゴメンねー!!!あー山上さん!
お疲れ様です!何か?」

「会社説明会の子、お見えになりました。
応接室借りますよ。」

「え!希望者の子!?この方!??
女性の方だったんですか!!!」

「お…おはようございます、小原と申します」

「ありがとー来てくださってー!!!
絶対入社してね!!ムサイ所だけどさー!
良いトコだから!!
あ、ゴメン…ハイハイ小野原営業所です!!
どうしましたー!?」

「じゃ、小原さん、まいりましょうか。
二階になります。」

そう山上さんに促され、
大騒ぎになっている1階の営業所を後にして
事務方の部屋や休憩所が入っているという
上の階への階段を上った。


「あの、何かあったんですか?トラブルとか…」

「何の話ですか?」

「いや、大騒ぎになってらしたので…」

「ああ、あの位は日常です、この時間はね。
まあ多少何かあったんでしょうが、
大した事じゃあ無いですよ。
ホラ、みんなちょっと笑いながらやってたでしょ?」


確かにそこは私も気になった。
営業所のカウンターや机に5~6人くらいだろうか、
バタバタとはやってはいるのだけど、
どこか…心なしか、にこやかなのだ。
時折冗談を言うのも聞こえてきたし。


「本当にヤバい時はもっと殺気立ってますから。
「一発」って言ってたでしょ?
当日休みの人間って意味でね。
風邪なのか何なのか、理由は知りませんが、
ダイヤに穴開いちゃって
調整でもしていたんでしょうよ」

「ダイヤ…?」

「ああダイヤね。ダイヤグラム。
その日の運行内容の事です。

…今は40始業…位かな。
まあ一日の運行予定が40種類あって、
それを毎日、一個一個ローテーションしながらこなすのが、アタシらの仕事ってワケです。

今日は3番始業、明日は4番始業…って感じでね。
4勤して1休、3勤して2休……
10日の完全ローテーションになるのでね、
1年先まで自分の予定が分かりますよ、この仕事は」

「バスの仕事って、どこも同じ流れなんですか?」

「え?…ああ他社さんはって事ね。
休みの予定は違うかもしれません。
ただ、ダイヤに従って、運行内容が分かるってのはどこも同じですよ。ウチが10日ローテになってるのは土地柄もありますから。」

「土地柄…」

「会社名見てください。緑根バス……ですから。
小野原バス…じゃあないんです、
小野原市に営業所あるのにね。

小野原の市内線と、緑根の山ン中、
両方走ってるんです。
4勤は市内線、3勤は山線…
まあつまり緑根線ってワケですね。」

緑根は温泉が所々点在する山岳地帯だ。
都心から最も近く旅行に行ける
日本有数の温泉地で、日本全国のみならず、
海外からも凄い数の旅行者が訪れる。
一応、小野原の隣町…って立地関係だ。


「緑根の山ン中走ってるんですか?
あんなカーブだらけで狭い道…バスで?」

「そりゃもう、緑根バスですから。
我々の庭です。」

「なんかこう、山用のバスとかでですよね?
小回り利く奴とか…」

「いや?普通のバスですよ。大型バスです。
まあ、キョーレツですよ…
緑根の山は……ウッフッフ…」


不気味に笑う山上さんの声を聴きながら、
滅茶苦茶不安になった。
あんなトコ走ってるバス会社なの…!?
イヤ絶対無理だって!!!

何かの折に仲間で遊びに行った事はあるけど、
本当にただの「山道」なんだ。

カーナビを見ただけで軽く恐怖を
覚えたほどの道で、まるで小学生が落書き帳に、
テキトーに書いた迷路みたいな
道のグネグネさ加減…

しかも急こう配の連続で、
乗用車を運転してくれていた友人も
冷や汗かきながら走っていたような道なんだ。

運転に慣れているあの子ですら
あの有様だったのに、私が……?
しかも大型バスで……!?絶対無理だ。


「あら、顔色悪いですね。どうしました?」

「いやあの……無理です絶対私。
あんな所バスで走るとか…」

「あーなるほど。心配無用です。
イキナリは緑根には行きませんよ。
小野原の市内線でみっちりバスに慣れてから、
それからです。

…早い奴で1年…2年。
出来が悪いと3年くらいかな。
アタシが入社した頃は
すぐ山線にも行ってたモンですがね。
トラブルや事故が多いもんで、
大分昔にそういう指導方針に変わりました。
大丈夫ですよ」


いやいや全然大丈夫じゃあないよ。
いずれあんなおっかない道走らされるんじゃないか…
そう心の中で突っ込みながら、
応接室に通され、会社の概要や特徴、
そういうのの紙や映像を見せられるが、
どう考えても私がやっていける気がせず
半分上の空で聞いていた。

…が、ふと山上さんに聞かれた。


「いかがでしょうか」


…いかがも何も…

何だってわざわざ私みたいのに声を掛けて、
この人は無茶な事させようとしているんだろうか。
そんな気持ちが湧いてきて、口に出してしまった。


「お聞きしたいんですが」

「はい、何でしょう」

「何で私をスカウトされたんですか?」

「…はい?」

「ダンプの免許、私が取ってたからですか?」

「まあ…半分はそれですかね」

「半分……残りの半分は何だったんです?」


そう聞くと山上さんは黙った。
この人らしくない沈黙に思えたが、
構わず重ねて聞いた。


「私の運転にセンスでもありました?」

「いや?全然?」


私が話しているのにまた食い気味に…
その件に関しては間髪入れずに返答してきた。
絶句する私に山上さんは、さらに重ねて言った。


「随分ヘナチョコな運転してる子がいるなと思いましたね。あれほどお粗末なのは久しぶりに見ましたよ。正直」

「…じゃあなんでそのヘナチョコに声掛けるんですか」

「…なんでだと思います?」

「質問してるの私なんですけど…」

「納得…してないように見えました。」

「……は……?」

「ダンプ乗るのに、一生懸命…
教習所まで通って来てるのに、
どう見てもふさぎ込んでるようにしか
見えませんでした。
別業界の人みたいな風貌ですし…

今の仕事に満足して、免許取ろうってんじゃ
無いんだろうなって思いました。
だったら……声掛けますよね。
アタシはスカウトに来てるんですから」

「女で……別業界から来たヘナチョコでもですか」

「女なのも未経験なのも、
今運転がヘナチョコなのも、
大した問題じゃないんです。
入社するならどうせアタシが
バッチリ指導してプロにしますしね。

むしろ中途半端に経験者より、やり易いまである。
変な運転の癖も、素人ならついてませんしね。

そんな事より…大事なのは…
プロに技術を仕上げたのちに、
プロ意識が持てるかどうか。
そっちの方が大事です」


なんて答えて良いのか分からず、
しばらくお互い何も語らず
静かな応接室の風景が続いたのちに、
山上さんはまた言った。

「いつもなら、志望者にこんな
踏み込んだ話までしないんですがね。
聞かれたんで言います。

多分あなた…
人に誇れる仕事がしたいだけなんですよ。
スゲーな、立派だな、プロだな…ってね。
人にそう言われて…そう思われたいんです。

……緑根の山ン中、お客さん山ほど乗せて
平気で走れる奴なんて、バス業界ん中でもそうそう居ませんよ。胸張って仕事出来ます。」

まただ、またこの人、
私の事分かったような顔して自信満々に……

ただ悔しいのが、少しだけ頭を過ってしまう。
もし、あの人が…デッカいバスで堂々と、
プロとして働く私を見たらどう思うだろうか。
また地方の片隅の小さな仕事と
馬鹿にするだろうか……それとも……


「あなたならやれますよ。
そんだけ鼻っ柱強けりゃ何だって。

…今決める必要なんてないですから、
ゆっくりね、身の振り方を考えたら良い。
今の仕事との兼ね合いとかもあるでしょうから」

最後に山上さんはそう締めくくって、
説明会を切り上げた。

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