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土と根っこと「これから」の話

先日、53歳になった。いつの間にか「中年」の奥のほうへ来ていて、老人と呼ばれる日も間近い。でも、中身は30代・40代、いや小学生時代ともさほどは変わっていない気がする。よしながふみの名作『昨日何食べた?』のシロさん(50代弁護士)のせりふで「子供がいないと35歳くらいからずっと精神年齢が止まっちまってるんだな しかももう孫がいてもおかしくない年になっていたとはねえ」というのがあったが、本当にそうだなあと思う。

この記事が入っているマガジンのテーマは「今年の展望と、その先の私」なんだけれど、正直、今の私に長期的な展望らしいものは何もない。

ただ、さしあたり決まっていることがひとつある。一年半前に老人ホームに入所した大叔母の家が空き家になっているので、今年中には長年住んだ深大寺を引き払い、しばらくそこで仮住まいをさせてもらうことだ。大叔母の家は八王子市にあるこぢんまりした一軒家で、小さな庭もある。築年数はたぶん私の年と同じくらい。傾斜がきつい丘陵地を開発、分譲した昭和の団地の一棟で、今より山が近い。

91歳になる大叔母はとても元気で、家にある電気毛布とか爪のやすり、シャンプーハットなど、ちょっとしたものを取ってきてちょうだいとよく言われる。缶詰や即席スープなどの貯蔵食品も、賞味期限が切れないうちに持ってきて! とも頼まれるけれど、塩分制限があるため、当面のところ食品の差し入れは差し止めだ。

そんな状況を鑑み、一階は大叔母がいつ帰ってもいいように片づけておいて、しばらく使っていなかった二階を中心に生活させてもらおうかなと考えている。コロナ禍で都心に出る頻度は減っているから、たぶんあまり不便は感じないだろう。以前は空き家の存在をただ面倒に感じていたのだけれど、家賃を倹約できるのはありがたいし、土のある生活に興味がわいている。

これまでベランダの植物を何度枯らしたかわからないので、自分は土いじりが苦手なんだと思っていた。でも、最近youtubeで「水やりの基本」に関する動画を見て、植物について知らなさすぎただけだと実感した。

水やりは「朝」、「土が乾いたら、鉢の下から水が出てくるまでたっぷりやる」のふたつが原則だという。夏の真昼に水をやるとすぐお湯になって根を痛めてしまうことは知っていたが、だったら夜でもいいんじゃないかと誤解していた。この原則には、もっと大事な理由があったのだ。

植物は昼間、葉の裏にある気孔を開いて蒸散をさかんに行う。水分が外に出て行くので補うことが必要だ。それに、光合成には水が必要だから、午前中のうちに「水が十分にある」状態にしておかなくてはならない。

植物が蒸散をしない夜に水をやると、水分が長く土中に残って根腐れが起こりやすくなる。また、植物は昼間光合成でつくった糖を、夜に必要な箇所に回しているのだけれど、夜間に余分な水分があると茎がひょろひょろと徒長しやすいそうだ。

また、水やりには鉢の中の空気を交換し、根に酸素を供給する役割もあるという。鉢の下から水が出るほどたっぷりやることで、根の隅々まで水分と酸素が行き渡る。そして、土が乾くまで次の水はやらない。土が乾くと、根は水を求めてたくましく伸びていく。水をやりすぎると根が健康に育たないばかりか、根が呼吸できず「溺れた」状態になってしまう。

夜、思いついたようにちょろちょろっと水をやったり、旅行前、受け皿に溜まりっぱなしになるほど大量の水をやったり……。これまで私は、してはいけないことばかりやっていたのであった。

現在、深大寺のベランダには長年ほそぼそと生きているジャスミン、友人にもらったオリヅルラン、芹(食べた後根っこを植えたら葉が出てきた)がある。ここ数週間、水やりは「朝」、「土が乾いたらたっぷり」の原則を守ってみたところ、どの鉢も少し様子が変わってきた。鉢の大きさや土の質によって、土の乾き方はかなり違う。霜に当たって枯れていたオリヅルランは勢いよく伸び出し、ジャスミンは葉が心なしかたくましくなり、つぼみも濃い紅に色づいてぐんぐん膨らんできた。芹はアブラムシが発生してあまり元気がないが、伸びすぎたところを切ってはばしゃばしゃ洗って味噌汁に入れて食べている。今、こいつらは蒸散して光合成しているんだなと思いつつ見ていると、気持ちが落ち着く。

一方、しばらく放置して荒れてしまった大叔母の庭だが、3月初旬に行ってみたら福寿草やクリスマスローズがぼろぼろと花をつけ、梅や椿も咲いていた。暑くなって雑草が生い茂る前に少し頑張って手入れして、青菜やハーブ類なんかも育ててみたい。

まだ何も始めていないけれど、庭仕事はきっと、塩をふって味がしみるのを待つとか、パン生地を寝かせて発酵を待つというような「仕込み」の感覚に似ているんだろうなと思う。そういえば夏井いつきさんは、俳句ができあがる時の感覚を「結球する」といっていた。自分で無理矢理丸めるのではなく、キャベツや白菜の葉がカールして玉になるように、玉のような言葉がころんとまとまり、自分から離れていく。そんなふうに仕事ができたら、と思う。

ライター仕事には納期があるので、最終的には無理矢理まとめて形にしなければならないことも多い。でも、今後はできる限り「無理矢理」を止めたい。借りてきた言葉を未消化のまま使ったり、つながりの不自然さを無視して強引にまとめたりすると、文章全体が硬直してつまらなくなる。そして、その自覚があると嫌な疲れ方をする。

話は変わるが、最近『土と内臓』という面白い本を読み始めた。地質学者のデイビッド・モンゴメリーと、生物学者のアン・ビクレー夫妻の共著で、二人の庭づくりと腸の健康、微生物研究と医学の歴史が織り交ぜて語られる。

人体の表面と体内には、膨大な数の微生物がすんでいて、それらの細胞の数は人間自身の細胞の数の少なくとも三倍(十倍という説も)だそうだ。だとすると、人間の体はまるで多種多様な生き物がすむ森のようだ。

人間がもつ興味や好奇心も、植物の根っこに似ている気がする。ある人物やできごと、これまで関心のなかった分野に理由もなく吸い寄せられてしまうことがあるが、あれはたぶん、自分にとって必要な水や養分がそっちにある、ということなんだろう。

先のことは本当にわからない。でも、年を取れば取るほど、興味の根が自由に伸びていくよう、体や脳に水をやったり耕したりといった「仕込み」の必要性が増してくると思う。

計画とかスケジュールという言葉には、エクセルの桝目のような、四角くぎっちりしたイメージがあってなんだか苦手だ。会社員時代、中学生の勉強法の記事で「スケジュールとは崩れるものだから、そのつど立て直すのが基本」なんて書いていたけれど、自分としては半信半疑で、どうせ立て直さなきゃならないなら最初から立てたくない、なんて思っていた。もしかしたら「計画」と「実行」は別物という感覚に、苦手の原因があるのかもしれない。「仕込み」や「土づくり」をいつから始めれば収穫できるかという考え方に直してみたら、すとんと腑に落ちた。

「いくらネタを仕込んでも何もできないんじゃないか」という不安がなくなることはきっとない。むしろ年を取るほど大きくなるかもしれない。でも、収穫を思い描きつつ仕込みを楽しむような感覚を少しずつ育てていきたい。


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