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2020年における50代フリーランス女子の タイムループ現象と野鳥と縄文土器と巡りくる春の話


2020年を振り返ろうとしたら、あまり仕事の話になりませんでした。むりやりまとめるなら「アラフィフにありがちな時間の話」です。

今はどこ? ここはいつ?

去年の元日の日記を見ると、「甥っ子、坊主めくりで大勝」と書いてある。

毎年、正月は世田谷区にある実家で親と弟の家族と一緒に過ごしていた。2015年に母が亡くなって以来、父とじいちゃん猫のずしおう丸という男所帯だったのだが、2019年10月に猫が、2020年2月13日に父が亡くなった。
そして2021年、上の世代がいなくなった家で、弟夫婦と正月を迎えることができた。

今年7歳になった甥っ子のマイブームは、ポケモン柄のカードゲーム「ウノ」だった。ルールを忘れたといったら、マンツーマンで教えてくれた。もうすぐ4歳になる姪っ子は、テレビを見ながら突然フィギュアスケートのまねをはじめ、ものすごくくるくる回る特技があることがわかった。

子どもたちは一つずつ大きくなり、大人は一つずつ年を取って、あっち側に知り合いも増えた。なぜか最近「年を重ねる」と言い換えられがちだけれど、「年を取る」という言葉は悪くないと思う。時間が、重さや手ざわりのあるものに感じられるから。

実家には弟夫婦が住むことになっているのだが、父が亡くなったのが子どもたちの入学・入園の直前だったこともあって、今は一時的に空いている。月に数回、弟夫婦か私が行って片づけをしている。

私がすんでいる調布市深大寺のアパートから実家までは、野川沿いの遊歩道でほぼつながっていて、自転車で45分ほどだ。野川沿いにはサギとかカワセミとか、いろんな鳥がいる。
父と仲が悪くはなかったのだけれど、さほど共通の話題がなかった。それで、よく野川や多摩川でみた鳥の話をした。父は鳥が好きだった。

父は大腸がんを患ってはいたもののずっと元気で、仕事もしていた。去年の今頃は急激に弱りはじめた時期だった。年末までは新しい歯ブラシを買いに近所へ出かけたり、チューリップやクロッカスの球根を植えたりしていたが、2020年が開けてからは外出が難しくなり、食べられるものもどんどん減っていった。
1年前の私は、おおよそ父と実家で暮らし、ときどき弟夫婦に泊まってもらって、その間深大寺へ帰るというペースになっていた。

看護体制はとても恵まれていた。母のときにお世話になった訪問診療のM先生と訪問看護ステーションの連携ができていて、担当看護師のYさんは坂の上にある看護ステーションから週2回、最後の頃は毎日のように、自転車を飛ばして来てくださった。患部のケアや清拭のほか、足が冷えるという父のためにレンジで暖める「ゆたぽん」とか役に立つものをいろいろ教えてくれ、「経験上、痛み止めはテープ式のものにしたほうが便秘が進まなくて良い」と先生に進言してくださり、私のことまで何かと気遣ってくださった。「かやさーん!」という優しい声が今も耳に残っている。

今思えば、コロナ禍が深刻になる直前のことだった。緊急事態宣言以後だったら、医療現場は本当に大変で、あんなに丁寧な対応はしていただく余裕がなかったかもしれない。

父は最後までしっかりしていたが、痛み止めの副作用でせん妄状態になるのを恐れていた。緩和ケア科への入院も検討していたが、本人の希望もあって、自宅で看取ることができた。毎日のように、父の仕事仲間や友人の見舞い客があった。仕事の話をしていると、父の声に張りが出てくるのが隣の部屋にいてもなんとなくわかった。

当時、私の仕事もそれなりに忙しかったけれど、外での取材はなるべく減らし、時代を先取りしてリモート取材も経験させてもらった。2月初旬、まさにダイヤモンドプリンセス号の集団感染が新聞をにぎわしていた頃に熊本出張があったが、夜に弟、昼に義妹が交代で来てくれた。

2021年1月3日。通い慣れた野川沿いの遊歩道を、実家から深大寺に向かって自転車で走りながら、いろんな鳥を見ていた。
じーっと突っ立ったままのでかいアオサギ。純白のコサギ、チュウサギ。潜水のうまいカイツブリ。目の周りのグリーンがうつくしいコガモの群に、岸でのんびりえさをあさるカルガモたち。この寒いのにバシャバシャうれしそうに水浴びをしていたカラス。

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1年前の今頃。本当に恵まれてはいたものの、不安は不安だった。スーパーを歩きながら、世の中にはこんなに食べ物であふれているのに、なぜ父は何も食べられないのかと思って泣いたことや、休日に痛み止めが足りなくなりそうで、M先生の診療所と薬局2軒を自転車ではしごしたことを思い出す。
弟夫婦が実家に泊まってくれる日は、野川沿いを通っていそいそと深大寺へ帰り、T氏と会った。T氏とは、パートナーといえる長いつきあいの男友達である。T氏はいつも無言で励ましてくれたし、1月末には、父のために実家で夕食を作ってくれたりもした。小松菜の入った翡翠ワンタンとスープを、父は一口しか食べられなかったけれど、うれしそうにしていた。

深大寺でT氏といるときが本当の自分のような気がしていたが、かすかな後ろめたさもあった。目覚めたとき、今実家と深大寺とどっちにいるんだろうとわからなくなることがよくあった。できる限り父のそばにいたいと思いつつ、父が亡くなったら自分の時間を自由に使えるぞ、とも考えていた。実家に帰った瞬間、「野川にカイツブリがいっぱいいたよ!」と父と弟に報告したことを、昨日のことのように思い出す。

というより、同じ季節に野川でカイツブリを見て深大寺に帰ってきたら、まるでこの1年がなかったかのような気がしてきた。記憶が混ざってきてちょっと怖い。「コロナ禍の2020年」なんて全部夢で、本当はまだ父は生きていて、私は早く帰って弟夫婦と交代しなきゃいけないのかもしれない。明日は「かやさーん!」という元気な声とともにYさんがケアに来てくれて、明後日はM先生の往診、その後処方箋を薬局にFAXしなきゃいけないのかも、そんなふうに思えてしまう。認知症になったときの頭の中ってこれに近いのだろうか。
タイムループもののSFや浦島太郎のお話は単なるフィクションではなく、現実の感じ方かもしれない。実際はいろいろあったのに、ぎゅっと圧縮がかかったように、1年前が「昨日」になってしまう。1年がなかったことになるのがタイムループだし、1日だと思っていたら1年だった、というのは浦島太郎的だ。2020年がこれまでと違う1年だったから、よけい時間の流れが変に思えるのかな。

まとまらない時系列まとめと生産性について

・2月18日 
葬儀。これより1、2週間後だったら、コロナ禍の深刻化でふつうの葬儀はできなかったかもしれない。

・2月後半~3月
お香典返しやら手続き関係であっという間にすぎた。私は事務処理が超絶苦手で遅いのに、弟夫婦がすごく頑張ってくれて、着々と片づいた。

・3月初旬
ステイホームになるギリギリ前、どうしても一人になって気持ちの整理がしたく、3泊4日で信州に旅行に行ってきた。
松本駅の駅ピアノで、小さなリュックを背負い、マスクをしたままショパンの「幻想即興曲」とベートーベンの「熱情」全曲を弾ききった青年がいた。音大生だろうか。
有名な縄文時代の遺跡・尖石にもいってきた。八ヶ岳と日本アルプスを見渡す別荘地みたいないいところで、栗林の中に金色の福寿草が群生していた。

・4月~6月
仕事は減っていたけれどゼロではなかったのと、少し貯金もあったので、不安でいたたまれないということはなかった(これもすごく恵まれていた)。
昼間動いている間はぜんぜん平気だったけど、夜ひとりで実家にいたりすると、悲しくなって飲んだくれたりしていた。そうこうする間に四十九日も過ぎた。

5月、noteを始めた。電車に乗らなくなったかわりに、一日一度、深大寺周辺を散歩した。書評とかエッセイをたくさん書いて文章修行するぞ! と思っていた。6月の手帳を見ると、みごとに予定がなくほぼ真っ白。

大変な思いをされている医療現場の方をはじめ、あちこちから怒られそうなのだけれど、正直なところ、巣ごもり生活には妙な穏やかさがあった。私は仕事が遅く万事において有能ではないが、世の中全体がスローダウンしているので、なんだか安心というか。仕事でおつきあいのある舞台関係者の心痛を想像するとやりきれず、ライブに飢える気持ちもある一方で、長いお休みが開けてほしくないような気もしていた。

・7月~現在
徐々に世の中が動き始めて、7月末~8月には、バレリーナ取材など少しメジャーなお仕事もいただけた。他ジャンルの仕事は全体に減ってしまったけれど、ダンス関係の仕事は比較的あり、大叔母の老人ホーム入居準備という個人的な用事と重なって、秋・冬はわりあい忙しかった。結局、まとまった読書や自分の書きものは中途半端なまま止まっている。

2020年後半は、時間の流れ方に加速度がついてきたが、ときどきひょいと1年前に戻される感覚があった。親の死は、アラフィフにもなればありふれたことだけれど。死とか病気のそばにいると、時間の流れがおかしくなるのかもしれない。あ、猛烈な恋愛とか、(私は経験していないけれど)出産によっても時間の速さが変わりそうだ。

時間の感覚とともに、仕事の意味もなんだかぐらついている。
「収入÷時間=生産性」という考え方にはあまり意味がないような気がする。ダンス関係の仕事は楽しく、頑張ってやっているけれど、収入面だけでいえば残念ながら低い。もっといえば、ステイホーム期間中に一人で読んだり書いたりしていたことも、長い目で見れば「仕事」だったと思いたい。

目標は、縄文土器みたいに

まとまらなくてすみません。もうすぐ終わり、といいつつ話が縄文に戻る。

数年前、東京国立博物館に土偶展をみにいったとき、T氏が「縄文時代って文化系がはじめて脚光を浴びた時代なんじゃないか」といっていた。それまでは大きな獲物を仕留められる体育会系が圧倒的に尊敬されていたけれど、縄文時代に入ると、「あいつ、狩りは下手だけどいい土器つくるぜ」とリスペクトされる文化系もいたんじゃないか。もちろん、狩猟採集社会だから土器だけをつくって生きていけるわけじゃなく、やぶから獲物を追い立てる勢子役とかはやらなきゃいけない。でも、たまに狩り名人が「今日はオレが鹿とってくるから、お前はその土器焼いちゃえよ、そのかわりいちばん出来のいいやつをオレにくれよな」って言ってくれたりして、等価交換が成立したんじゃないか、という話だ。

今さら原始交換社会に戻れるわけでもないけど、好きで焼いてる土器を、たまに欲しいといってくれる人がいる、みたいな働き方ができたら理想だなと思う。うん、むりやりまとめると、2021年は、ご注文にも応じますけど、基本は好きで焼いてる土器です、くらいのスタンスで仕事をしたいです。美しい焼き加減や新鮮な縄文柄、人面付や火炎式などいろいろ研究します。あ、埴輪も好きだからたまには焼いてみよう。

そんなこといったらもう仕事こないんじゃね? 誰もそんな土器いらねーよ、と脳内でだれかがいっています。それでも、どこかに小さな火は燃やしておくことにします。

時間は前に進むけど、春はまた巡ってくる。いいことばかりじゃないだろうけど、やっぱり春は楽しみです。

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