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自由と責任はワンセットだ-改

 「お金と時間があれば自由になれる!」と20代の頃の僕は考えていた。

 僕の働き方を根本的に変えようと決意させてくれた本に、1997年に初版が発行された「金持ち父さん、貧乏父さんーアメリカの金持ちが教えてくれるお金の哲学」(ロバート・キヨサキ著)がある。初めて読んだ時は衝撃だった。

 資本主義において労働収入は労働力の再生産コストとほぼ等しい。機械と同じように、労働力を維持するためには人間もメンテナンスが必要だ。つまり、住む家、食べるもの、着るものなどの衣食住に加え、次世代の労働力を育成するにはコストがかかる。さらに言うと、余るようには設計されていない。なぜなら、資本家は経費を抑えながら、売上の最大化を意図するため、労働者に支払う労働力の再生産コスト=人件費は当然最小化されるからだ。しかも、1ヶ月単位で支払われるので、キヨサキ氏はそれを揶揄してラットレースと呼んでいるわけだ。

 実際に僕は、より自由に使えるお金と、より自由に使える時間を求めて一生懸命働き、労働時間に比例しない仕組みを僕は構築した。はっきり言うが、労働時間に比例しないだけであって、仕組みを構築維持するのは超ハードワークだ。「不労所得」の「不労」という言葉は決して労働が伴わないという意味ではないので誤解しないでほしい。単に収入が労働時間に比例しないだけだ。

 では、本当にお金と時間があれば自由なんだろうか?

 当時、より多くのお金を求めて頑張ったのは事実だが、実際お金はいくらあっても足りない。家族を養うお金はそこそこあれば充分だが、会社を維持発展させていくとなると全く足りない。ビジョンを実現させようとなると、本当に足りない。いまだに10億円どこかに落ちてないかなと本気で思ってしまう時がある(笑)。

 また、時間は1日24時間しかないし、お金のように増やすことはできない。さらにいうと、人間は死ぬようにプログラムされているから、時間は目減りしていくだけだ。時間の自由とは、好きに使える時間ではなく、管理下に置けているかどうかだ。仕事ができる人=時間を管理下に置けている人であればあるほど、自由な時間がほしいなどといった寝言は言わないものだ。なぜならそれは、自分が時間を管理下に置けてないことを公然と言っているのと同じだからだ。

 僕の求めている自由は、好きなことを自由気ままにやりたいという意味ではなく、自分の人生を管理下に置くという意味だ。僕は誰かに、あるいは何かに、自分の人生を決められたくないのだ。ちなみに誤解しないでほしいが、会社員だった頃の僕が不自由だったということではない。雇われて働くということを、僕が選択していただけだ。会社員の友人で仕事ができる方であればあるほど、極めて自由だ。職業や働き方の違いではなく、選択責任の違いだ。

 僕のことを「軽く」知っている方から、強い女性の尻に引かれている不自由な男と勘違いされることがあるが、これは正確ではない。あくまで尻に引かれていることを自ら選択しているから、僕は常に自由である(笑)。強い女性との関係の場合、その方が効果的だからそうしているだけなのだ。これも僕の選択だ。

 僕が言いたいのは、本当の自由とは責任を生きるということだ。自由には責任が伴うのだ。重たく聞こえるかもしれないが、僕はこのことに気付けたことで、外的要因でイライラすることがほぼなくなり、心を穏やかに保つことができるようになった。もちろん、蒔いた種を刈り取ることになるので、自分の未熟さに直面することも多々ある。しかし、責任を生きている限り、僕は常に成長し、間違いなく自由だ。

 ビジョンを描き、目標設定し、作業に落とし込み、責任を生きるのだ。責任を生きている限り、あなたはその瞬間から自由だ。

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