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土井啓史の自己紹介②-幼少期〜高校時代

幼少期の米国生活

父の海外赴任の関係で、僕は小学校進学を待たずして米国シアトルに引っ越ししました。小学校2年生までをシアトルで過ごし、束の間日本に帰国したものの、ほどなくして同じ米国のロサンゼルスに引越し、中学2年生までを過ごします。

物心ついたときから米国暮らしをしていたことが、僕の人生に影響を与えているなと感じることがいくつかあります。

1つ目は、キャリアについてです。

当時の海外赴任をしている方には、高級住宅街の住居が割り当てられていました。僕の父も例外ではなく、ロサンゼルス近郊を一望できる丘の上に居を構える、プール付きのかなり広い家で、周囲にある家も同様の豪邸でした。1992年に起きたロサンゼルス暴動事件の際に、自室から、遠く離れた街が燃えているのは今でも覚えています。

幼少期から裕福な暮らしをさせてもらっていることを自覚しており、自分や家族にここまで裕福な暮らしをさせてくれていた父を尊敬するようになり、「将来は父と同じように、よい大学に進んで学歴を積み、よい会社に入って出世をして、同じように豊かになろう」と考えるようになっていきました。

そして2つ目は、多様性です。

僕は人間関係において、誰とでも仲良くするよう心がけているのと、いろいろな考え方を受け入れようと努めています。

現地の学校に通う生徒は多種多様です。肌や髪の毛や目の色はもちろん、白人、黒人、ヒスパニック系、アジア系など様々な民族で構成されています。
同じアジア系でも日本人もいれば、中国人、韓国人もいます。信仰もたくさんあります。実際に小学校の時の親友は黒人の方でした。

日本は比較的単一民族ですが、米国は違います。そんな環境で育ったせいか、子供ながらに多様性を感じていたのだと思います。

そして最後はリベラルな考え方です。

個人の自由や多様性を尊重する米国で育ったことが影響していると思いますが、「人間は自由に判断し決定する事が可能であり、自己決定権を持つ」というリベラルな考え方が好きです。

この考え方を持っていたことが、その後の僕の人生にも影響を与え続けていたことを、今になって感じます。

父と同じ経歴を歩み始めた高校時代

そんな僕が日本に戻ってきたのは中学2年生のときでした。

両親は僕たち姉弟に対して、学歴は日本国内で積んでほしいという想いもあったのだと思います。僕が高校受験を、5つ年上の姉が大学に進学するタイミングでの帰国でした。父が慶応義塾大学の出身だったため、慶応義塾系列の高校と、それに近しい偏差値の高校を受験しました。

米国住まいが長かったことを理由に国語に対して苦手意識があり、国語の偏差値が壊滅的で、いまだに僕のセルフイメージは「日本語が得意ではない」です。

そんな中、唯一合格したのが慶應義塾大学附属志木高等学校でした。当時はなぜ合格できたのか全く分からず、あまりにも国語の手応えがなくて、合格発表に行かなかったくらいでした。後にわかったことですが、たまたまその年の国語の問題が難し過ぎて、他の受験生も点がとれず、差がつかなかったのだと思います。ただ、数学だけは平均的な偏差値から、全国トップクラスまで引き上げた経験があります。

受験勉強の時に「何事も継続し、努力し続ければ沸点を超える」という体感が得られたことは僕の人生の財産の一つです。

高校生活は横浜の実家から埼玉県の志木まで通っていたので、通学に片道2時間半かけていました。往復で5時間、、、今でも信じられません。

そんな状況にも関わらず、放課後は競技スキーの部活後にミスタードーナツでアルバイトをしていました。帰宅は毎日23時を過ぎており、母がラップをしてくれた晩御飯を食べて就寝し、翌朝5時半に起床するという生活を3年間続けていました。

目的目標のためにハードワークをするということは、この頃に身についていたのかもしれません。


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