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「伝わらなかった」という言い訳と、伝わる表現と

 表現に言い訳は無用だ。許されないとか格好悪いとかという話以前に、表現とは自分の手を離れたらもう、なにか情報を追加できるものではない、という意味で、言い訳は無駄なのである。
 あらゆる表現について、多くの人が言い訳を述べる。そんなつもりじゃなかったとか、まだ続きがあるとか、伝わらなかったとか。でも、それは言い訳どころかうまくいかなかった結果をごまかすための目くらましにすぎなくて、本当に無駄でいらなくて、余計にも程があるものだ。

 言い訳をするくらいならば、表現者はきちんと伝わるやる方を考え抜いて、そして反応を予想して、そうなるような表現をすべきである。いや、そんなことは当然に表現者はやっていなければならず、言い訳したくないから、という動機で行われるものではないはずだ。
 つまり言い訳と、表現の質は関係ない。伝わるかどうかに関わらず、表現者は最大限の表現を目指す。だから言い訳は、本当に自分のプライドのためでしかない。だってそんなもので、既に完成した表現に変更が加えられるはずはないのだから。

 表現者は表現で勝負すべきだという職業倫理よりも前に、そもそも言い訳とは見苦しいものだと理解すべきだ。しかも、その言い訳は1つの表現である。であるならば、自分の手掛けた表現によって、元々の表現を邪魔するなどということはあってはならない。
 言い訳がしたくなるのは、1つにはそれによってあれこれ拙い表現に理由をつけて、本質を隠してしまおうという意図である。大抵の場合、言い訳は耳にいい美辞麗句とか、責任の曖昧な断罪、的はずれな転嫁などで構成される。
 それらの中に、自身の拙い表現に焦点を当てる表現は多くない。

 端的に言ってそれは逃げであり、成長とは真逆だからこそ、表現を、言い訳表現で塗りつぶしてはいけないのである。
 表現者は言い訳無用だ。なぜならそうでなければ、そこから紡がれるあらゆる表現は、ただのつまらない自己保身的な活動でしかなくなってしまうからである。

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