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誰かの屍の上に立っていることを当然としていいのか

 それは当たり前のことだろうか。様々な成功の裏には確かに理由がある。仕組みがある。努力と、運と、それに見合ったコストがある。それはもちろんだ。
 かといって、その様々な成功の対価として、誰かの屍をもちろんなくてはならないものとすることは、許されていいのだろうか。もしくは、誰かを踏み台にしてきたことを当たり前のように吹聴することを良しとして良いのだろうか。

 物事に犠牲はつきものだと大人ぶって言うことはできる。もしくは子供のように、犠牲など仕方がないと開き直ることも。でもそれが正しいのかと言うと、私達は大人にも子供にもなれない。誰かの屍の上に私達の生活はあるが、最初はその犠牲たちはきちんと悲しみと供養のもとに敬意を評されていたはずだ。
 しかし、いつしかその感情は忘れ去られた。もちろん、誰かを犠牲にすることを後ろめたく思わない人はいないだろう。そんなことを最初からすすんでやろうとする人もいない。
 しかし人間は自己本位な生き物だ。その犠牲を忘れること、そして当たり前なのだと勝手に納得してしまうことができてしまう。自分には関係のないことだから。他人の不幸など、その犠牲など、本当なら知ったことではない。

 私達の倫理観はあやふやで、曖昧だ。それはいつでも都合よく形を変える。心の中でいいように解釈されてしまう。どんな時でも、少しでも楽な方へと流されようとしてしまう。それが他者の犠牲を伴っているとしても、自分を守る方向へと働く。

 それが、誰かの屍を踏みしめることを当然とする風潮を呼ぶ。他人事にしてしまう。今この瞬間にも、努力や心や命を蔑ろに踏みつけられる人がいるというのに。それを使って悠々と、心が傷んだふりをして上へと駆け上がる誰かが。
 だから出来ることなら、そういうった事実を忘れたり、いつでも当たり前のことなのだとうそぶいたりしないことが求められる。
 犠牲などないに越したことはない
 それがなければならない世の中は間違っているのだと信じて。

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