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具体化と構築力の蜜月

 私達は何かを目の前にした時、具体的なこと以外は何も分からないと言えるくらいには想像力がなくなってしまうものだ。もしくは、何かを理解せねばならない時、そしてそうしようと思った時に発揮される想像力というのは、ほんとうにたかが知れているということである。
 それ以上に私達は、その目の前にしたものの具体化された情報を頼りに、それを解釈して、噛み砕いて、そして飲み込んで理解する。だから物事が具体的でない時、ある意味で餌をねだる雛のように、ある意味で教えを請う弟子のように、自らが主体となって理解するということは、実はあまりない。

 なぜなら、具体的でないということは、その物事を実感できないということに繋がるからである。実感できなければ、それを想像できない。そしてそうする気にならないし、もしかすると「想像する」に気づかないことすらあるかもしれない。
 それほどまでに、目の前に具体的なものがあるということの、私達を誘導する力は強い。気づかせる力はすごい。はっとさせて、行動を起こさせる力は並々ならぬものだ。
 そしてもう長い間、そのようにして刺激を受けてきた私達にとって、具体的でないことは全く慣れていない状況なのである。だから、それが目の前にあるまでほとんど動くことができない。具体的な何かのためにしか、想像力を発火させようと思うことがない。

 具体性とは見本を形作る力である。見本があれば、私達はそれを少なくともその通りに感じ取ることができる。そこに勘違いは起こらない。もし問題になるとすれば、その後の解釈の段階であって、見聞きすることに師匠はない。それすら出来ないような状態とはわけが違って、見本があれば想像は進んでいく。
 そして、見本のためには、それを現出する構築という行為が必要だ。だから具体化とは構築化だということができるだろう。何か物事を理解させたい人が、そうやって構築してこそ、その物事は相手に具体的なものとして顕現するのだ。

 具体の正体は構築である。1つ1つを積み上げて、設計図のとおりに作っていくこと。
 私達がすっかり具体的なものに慣れてしまった経緯には、一方で、私達が構築力を高めてきたという喜ばしい事情もあるのだと言える。そのため、具体に慣れてしまうことは悪いことではない。それに頼りきりであることに焦るのではなく(あるいは、想像力がないなどという揶揄を真に受けることもなく)、私達はそのもう1つの恩恵である構築力を、切磋琢磨していくことができるのだ。


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