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創作が男女を区別する本当の理由

現実の世界の性別は多様だ。そこには男女を別で考えることの愚かさと、それどころか、性別というものにこだわる拙さをはっきり示している。そのことに腐心し、努力し、自由を勝ち取る人々の功績もまた、記録されている。

けれど、創作の世界において、「男女」はいつでも健在だ。人の頭の中で紡がれる創作とその周辺には、いつだって「男女」そして性別が存在感を放っている。それは何故か?

ある1つの簡単な理由があるからだ。
だって、創作は頭の中の物事で、信条の自由があって、思想は強制できなくて……違う。そういう問題ではない。そのような、誰かの考え方次第で容易に捻じ曲げられる理由ではない。
創作に男女が残っているのは、そのような創作者の権利の問題ではなくて、創作は意見のぶつかり合いだからだ。

ぶつかり合い、即ち、異なるものがそれぞれの存在価値を譲らないこと。それには、男女という根本的対立・区別はすごく便利である。
男女の間にある価値観の違いや、考え方の相違、背景、問題、社会的構造は根が深い。
また誰しもが経験し聞いたこともあり、とても扱いやすいのだ。のみならず、そのような対立軸を持ち出せば、創作を見る人々は必ず、どこかに引っかかってくれる。
男はすぐに浮気するとか、女の話は長いとか、夫は妻のATMとか、専業主婦は楽だとか、そういう言説にはトゲがある。このトゲは、見るものをまんまと引っ掛けるにはもってこいだ。

だから、創作は男女を持ち出すのである。現実の扱われ方に関わりなく。

創作は何かと何かの対立を描くことで成り立ち、その対立には「男女」は最も容易でポピュラーで共感性の高いもの。そういった理由から、創作は「男女」をないことにはできない。その区別はある。違いはある。男女は対立している。ぜひともそういうことにしておきたい。最後まで。

それが、現実の世界の「男女」と、創作の世界の「男女」の存在感の違いなのだ。

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